ラグビーリパブリック

【コラム】限られて、なお。「3-6」から半世紀。

2021.09.02

1971年9月28日の第2テストは日本3-6イングランド。ラグビー母国をノートライに封じ込めた(Photo:BBM)

 9月12日。東京都国分寺市の新日本製鐵グラウンドに集合。同15日まで強化合宿を行う。参加選手24名。監督とコーチがひとりずつ。同22日から23日。奈良県天理市で調整合宿。同24日。大阪・花園ラグビー場にて第1戦。同28日。東京・秩父宮ラグビー場での最終戦に臨む。

 9月。ひどい残暑でも、そうでもなくとも、さあラグビーの季節は到来する。上記は2021年シーズンを迎える某チームの予定である。というのはウソで50年前の日本代表のスケジュールだ。イングランド代表の来日にそのように備えた。これより前の7月21日~同25日までは長野県菅平高原で候補選手41名の夏合宿を実施している。

 1971年のジャパンの準備期間は現在に比べると実にささやかだ。ただし指導者はできることをすべてしていた。いま新型ウイルスの感染拡大によりラグビーの活動はままならない。どうか限られた条件でもベストを尽くす例として知ってもらいたい。

 イングランドとの対戦は日本ラグビー史において初の強国代表との「テストマッチ」だった。カギカッコをつけたのは当時の相手側の慣習というか方針で、顔ぶれは正代表なのに公式のテストマッチと認められなかったからだ。ジャパンにすれば、いわば片思いの決闘である。

 同年4月、イングランドは協会100周年を祝い、世界選抜と戦った。そのゲームに来日メンバーが9人出場している。11ー28の敗戦。ジャパンの大西鐵之祐監督は手を尽くして試合のフィルムを取り寄せ、さっそく分析を始める。著書『スポーツ作戦講座3 ラグビー』(不昧堂)に詳細が記されており、以下、参照しながら紹介する。

「イングランドの攻撃パターンは次の5種類に限定されている」

1971年のゲームを振り返ったスタッツ(著書『スポーツ作戦講座3 ラグビー』=不昧堂)

 スクラム起点のサイド突破、ハイパント後のモール形成、FBの両CTBのあいだへのライン参加などを挙げ、ことにスクラムの近くでハーフ団(9番、10番)が動いて意図的にモールをつくり、そこから広く攻めるパターンを警戒している。

 名手ぞろいの世界選抜はイングランドの速い防御に後半は対応、セットプレーのサイド防御を崩すことで出足を止めた。「非常に適切な作戦変更」と評価しつつ「この作戦は、体の小さな全日本のFWにはむずかしいであろう」。このあたりの鵜呑みにしない感じが頼もしいのだ。

 前年の9月にイングランド来日決定を知るや、貪欲に活字の情報を集めた。遠征出発前のガーディアン紙には監督兼副団長のジョン・バージェスのコメントを見つける。そこには「基本的なフォワード・プレーを組織立てる」とあった。ここから「強力なフォワード戦を挑んでくる」と仮想、ジャパンの選手選考にも反映させた。軽量で最近の表現ならワークレートの高いベテランを外し、体格に恵まれて近場のタックルの強い人間を起用、短いキャンプで役割を仕込んでいく。

 ちなみに英国の新聞は「ブリティッシュ・カウンシル(公的な文化交流機関)に通って読んだ」と本人が話すのを聞いたことがある。

 イングランドの協会専属コーチで遠征における秘書役のドン・ラザフォードの指導書もつぶさに調べた。「彼の理論的方策の中から、どれを今回の来日チームに適用するかが、重要な観察ポイントとなる」。

 各選手の調査も怠らない。ひとりひとりの代表歴、出身校、職業を表にまとめた。いわく「情報収集の第一歩」である。「職業はペンワークの者が多い」。したがって「下半身は弱くなっていると考えられる」。ポジションごとの体型にも関心を寄せ、だれが展開を担い、だれが「体当たり戦法」に出るのかの見当をつけた。

来日選手について、職業までを丁寧に調べ上げた(著書『スポーツ作戦講座3 ラグビー』=不昧堂)

 1968年の日本代表のニュージーランド(NZ)遠征と、1971年5月~8月のブリテイッシュ&アイリッシュ・ライオンズによる同国ツアーの共通の対戦相手のスコアや内容を抽出するのも忘れない。対ニュージーランド大学選抜はジャパンが16ー25、ライオンズは27ー6。帰国後のコーチの発言も新聞で追った。オールブラックスに「FBまたは WTBのカウンター・アタックを学んだ」。それは3年前にジャパンがNZでたたえられた攻撃法だ。そこで「このたびの全日本も大いに活用する必要があろう。(略)また逆にイングランドとしてはこれを使うかもしれないから十分注意」と記している。花園での第1戦、ジャパンは自陣深くからカウンターでつないでトライを奪った。

 いよいよラグビーの母国は日本へやってくる。卒業生を含む全早稲田大学(英語ではワセダ・ユニバーシティー・パスト&プレゼントと表記された)とのツアー初戦は56ー4の大勝だった。大西監督は、この日の攻防をジャパンの作戦決定の参考とするつもりだったが、雨中の一方的な展開にイングランドが「スタンダードな戦術」しか用いず、それは「大きな誤算であった」。

 そして、だからこそ、これまでの「情報収集と仮説構築」がいきた。全早稲田戦での攻め方と、そこでは試さなかったが「予想されるやり方」を切り分けて選手に示した。前者が5通り、後者は3通りだった。
 
 19ー27。 3ー6。ふたつの「テストマッチ」のスコアである。ガーディアン紙の見出しは「ジャパンがイングランドを出来のよくない生徒にした」。タイムズ紙の元ウェールズ代表FBのヴィヴィアン・ジェンキンス記者は「タイミングのいいパスでマークを外し、考えられないポジションから攻撃し、イングランドをしばしばパニックに状態に追い込んだ」と書いた。

 1971年。9月18日にカップヌードルが世に出ている。遠い昔だ。ラグビーは変わった。ただし「できることをすべてする」コーチの情熱と態度は時代を超える。新しいシーズンもまた。