父と息子が関西学院の高等部として戦うのは、この秋が最後になる。
安藤昌宏はラグビー部監督。その長男は和輝。フッカーとロックをこなす。19歳の高校3年生である。
父は保健・体育教員でもある。
「あいつは子供として意識はしていません。部員は44人。だから44分の1です」
私よりも公が先にある。
グラウンドや校内では、「先生」と呼ぶ父から、最初に小言が飛んでくる。
「ほかの部員には言えないことでも、僕が怒られていることによって、気づいてくれることがあります」
その立場を受け入れる。けなげである。
年齢は同期より1つ上。中学部で3年生を2回やった。修学に時間を要した。
「数学なんかは参考書では解けるんですが、テストになるとバツがついて返ってきます」
笑うと細い目がなくなる。愛嬌がある。
息子の留年を聞いた時、父が懇意にする強豪複数から手が差し伸べられた。外に出れば遅れはない。高1としてスタートできる。
「家から通わせて、実の子として接する」
そう申し出てくれた指導者もいた。
「あいつにその話をしました」
その返答には覚悟があった。
「お父さんと花園に行きたいです」
息子は理由を説明した。
「幼稚園でラグビーを始めて、目標は高等部に行って、父と一緒にラグビーをやることでした。それしか考えていませんでした」
その意志をラグビー部の同級生が、さらにゆるぎないものにしてくれる。平生(ひらお)翔大は自宅を訪ねて、泣いてくれた。
「ずっと一緒にラグビーがしたい」
初等部5年からの友人である。
「平生がいてくれたから、高校に入っても嫌な思いをすることがありませんでした」
フッカーの平生は昨年、主将になった。チームは5大会ぶり7回目の花園に出場する。100回全国大会で息子は25人の出場登録メンバーに入る。1回戦の盛岡工戦は後半21分に出場。43−0の勝利に加わる。チームは次戦で敗れる。流経大柏に7−26だった。
平生が大学に上がった後も、1つ年下の同期たちは優しい。
「先生に怒られても、声をかけてくれます。引っ張らないといけないのに、みんなに引っ張ってもらっています。申し訳ないです」
主将は武藤航生(こうしょう)。この代は「カズ」と呼ぶ。苗字は呼びにくい。
父はこの3年を振り返る。
「きついです。楽しいと感じたことはありません。家に帰っても、お互いしんどいですよ。僕がラグビーの話をしたら、あいつに愚痴を言うてるみたいになります」
同じ経験をした年長監督たちはサポートしてくれた。竹田寛行(御所実)や湯浅泰正(京都成章)は息子に気軽に声をかけてくれる。
「ありがたいなあ、と思っています」
竹田は宜純(=よしずみ、近鉄)、祐将(=ゆうしょう、三菱重工相模原)ら4兄弟を、湯浅はトヨタ自動車で現役を引退した航平と3年間をともに過ごした。
家庭では妻であり母である裕佳(ゆか)が緩衝材になってくれる。
「嫌だったことを聞いてくれます。いつも気にかけてくれています」
母の旧姓は中島。実家の父・誠二郎と兄・宏介は同志社ラグビーの出身。父は社会人チームのワールドで部長をつとめ、兄は1989年度の主務だった
父は御影高で競技を始め、天理大に進む。1993年、高等部に新卒赴任した。現役時代はスタンドオフ。高校時代の監督・松原忠利は現在、関西ラグビー協会の理事長である。
「安藤先生のキックはどこまで飛んで行くんやろ、と思うくらいすごかったです」
初期の教え子の野中孝介は覚えている。2013年から3年間、大学の監督をつとめた。
家族4人は楕円球に近かった。安藤家には小6の沙央梨(さおり)がいる。息子は幼稚園から地元の芦屋ラグビースクールで競技を始める。中断期間もあったが、その時は初等部でタグラグビーをやった。
今、その左ヒザには黒いサポーターが巻かれている。4月の練習試合でじん帯を切った。
「9月中には復帰するつもりです」
その間、上半身を鍛える。
「大きくなったね、と言ってもらえます」
身長は173センチとそう高くないが、体重は90キロ近くまでもっていった。
息子の代は2月、報徳学園とともに近畿大会に出場した。10−50と京都成章に敗北。第5代表として選抜大会出場はならなかった。県民大会と呼ばれる春季大会は決勝敗退。報徳学園に26−45だった。
夏合宿は8月6日から10日間、長野・菅平などで行った。コロナにかからず、当初の日程を終えた。昨年から10人が卒業で抜けたが、バックスには決定力がある。フルバックの武藤、ウイングの立巳竜の介と2枚の高校日本代表候補を擁する。
101回目の全国大会予選の組み合わせは9月2日に決まる。
「報徳に勝つこと。まずそれです」
息子は力を込める。部員と監督の関係を一日でも長く続けるため、雪辱は絶対である。
「和輝にはかわいそうな部分はあります。でも、あいつ自身が超えていかなあかんことやと思っています。結果的にいいようになったら、いいと思います」
つらさと喜びが表裏一体だった3年間。どのような形であれ、最後は「お疲れさまでした」と笑い合えれば、それでいい。