226キロ。
武村晋(しん)の学び舎への鉄道距離である。駅は新守山から住吉。JRで愛知から兵庫まで5府県をまたぐ。
新幹線と在来線を使う日々の通学は5年目だ。
「今はもう慣れました。学校生活は楽しいです」
顔が笑みでくしゃっとなる。その日焼けはラグビーでできた。灘の2年生。この国トップの秀才が集う高校にいる。
「インパクトがあるのは、その距離ですよね」
ラグビー部監督の武藤暢生は言う。かつてこの長さを来る部員はいなかった。
起床は5時半。6時に母・夏楠子(かなこ)に車で送ってもらう。新守山へは10分。名古屋から新大阪は新幹線を使う。住吉から学校までは歩いて10分。自宅からはトータルで2時間30分ほどかかる。
「すごいです。僕は電車で9分でした」
中田都来(とらい)はびっくりする。最寄り駅は三ノ宮だった。筑波大で勉学とスポーツの両道で実績を残しているOBはこの夏、練習に参加する。
中田は6年制の医学群(部)の5年。この春まで4年間は体育会のラグビー部員でもあった。大学選手権で準優勝2回のチームで、2年からフランカーとして公式戦に出る。
武村にとって中田は身近なスターだ。
「あこがれです。大学のトップとして活躍して、医学の道に進んでいます」
この日はタックルを教えてもらった。
灘は中高ほぼ一貫の私立男子校。この春の東大合格者数は97。首位・開成(東京)の144に次ぐ。ただ、率は高い。「リベンジ組」と呼ばれる高校入学の45人を含め、1学年は約220人。開成の半分強である。
今の灘のトレンドは「東大か医学部」だ。
「僕は文系なので、大学では法律か経済を勉強するつもりです」
来年度には受験がある。
武村は小6の時、灘の文化祭を見た。
「好きなことができる感じで、先輩方の雰囲気もよかったです。校内にグラウンドも2つあって、設備も充実していました」
ラグビーとサッカーは常に第2グラウンドを使える。人工芝化で卒業生に寄付を募った際、すぐに目標額に達した逸話が残る。
合格した時は下宿も考えた。
「資料を取り寄せたりしたんですが、朝晩2食付きで結構かかりました」
新幹線自由席を使った通学定期は1か月で10万円ほど。下宿代よりも安かった。
その生活は母の献身で成り立っている。武村より早く起き、パン、目玉焼き、サラダなどきちっとした朝食と昼食を整える。駅への送迎も欠かさない。
「母には頭が上がりません。弁当まで作ってもらえて、とても感謝しています」
父の信之は現在、海外赴任中だ。
武村がラグビーを始めたのは中3の秋。それまでは野球をしていた。
「夏でひと区切りがついたので、次はみんなが活躍できるスポーツをやりたくなりました。ラグビーは15人が頑張らないと勝てません」
野球は投手にかかる比重が高い。
体が大きいことも勘案した。今は181センチ、87キロ。センターをしている。
「ライン全体で相手を止めたり、ボールを運んでいくところがおもしろいですね」
灘の練習は基本的に中高合同で火曜と日曜を除き毎日ある。火曜は唯一の7時間授業のため、オフになっている。
灘ラグビーの歴史は古い。創部年は1948年(昭和23)。学制改革で旧制中学が高校になった年に定められている。開校の20年後にあたる。県内では神戸、兵庫に次ぎ、3番目の長さ。全国大会出場こそないが、近畿大会出場は4回。最後は1974年。前任監督の山口安典の時代である。
この学校の保健・体育教員は5人。専門競技に関係なく、みな日体大出身だ。山口も武藤もそうである。武藤は43歳。現役時代には群青を着たフランカーとして、秩父宮で紫紺や赤黒と戦っている。長男の航生(こうしょう)は関西学院の主将。フルバックとして高校日本代表候補に挙がる。
灘は2016年度の96回大会の県予選を最後に合同チームになった。中田は単独チームで戦った最後の代になる。2勝したあと、3回戦で2位になる関西学院に7−70で敗れた。唯一のトライを記録した中田は、国体の県代表「オール兵庫」にも選ばれている。
現在、灘は六甲学院と合同チームを組む。部員数は9。武村の2年生が7、1年生は2だ。基本的に3年生は県民大会(春季大会)あとの6月にある甲南との定期戦で引退する。秋の全国大会予選には出場しない。
その慣習を引けば、武村ら2年生にとっては来月から始まる101回目の県予選が、花園を目指す最後の戦いになる。
「合同のハンディを乗り越えて、みんなと力を合わせてひとつひとつ勝っていきたいです」
長距離通学の中で、ラグビーと出会い、練習を続けてきた成果を出す機会が迫る。
楕円球との縁は将来も切らないつもりでいる。
「大学に入ってスポーツをやるなら、ラグビーを続けるつもりです」
その気持ちに、よい思い出を重ねていきたい。