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【ラグリパWest】ひろお先生、逝く。岡本博雄 [淀川工元監督]

2021.07.26

7月8日に病のため永眠された岡本博雄さん。71歳だった。大阪・淀川工で選手として2回、監督として5回、全国大会に出場した



 岡本博雄は7月8日、永眠した。
 高校ラグビーの有名指導者は71歳。平均寿命より10歳ほど若かった。

 闘病は1年ほど。ひと月前に悪くなった。故人の意向で病名は非公開、葬儀は近親者のみですませた。

 岡本は大阪の淀川工(現・淀川工科)で全国大会に7回出た。選手として2、監督として5。この府立校は13回の出場歴がある。

 岡本がラグビーを始めたのは旭区の旭陽中。隣の都島区の高倉中には大西健がいた。京都産業大を47年率いた元監督は、啓光学園(現・常翔啓光)から天理大を選んだ。メールに岡本への思いをつづる。

<彼とは中学、高校と同級でよきライバルでした。とてもよい選手で社会人ラグビーの大鉄局に進みましたが、退社して日体大で指導者の道に進みました。ご存じのように淀川工では名物監督として活躍し、たくさんの選手を京産にも送ってくれました>

 当時の淀川工は高校屈指だった。岡本はセンターとして全国大会に連続出場。高1の45回大会(1966年)はチーム初の4強入りに貢献する。盛岡工に3−3と抽選負けも、勝者は天理を6−5と下し、初優勝する。

 卒業後はJRの前身である大阪鉄道管理局に就職する。休日の山登りでバスケットボール部の顧問だった大内田節夫と再会。岡本の運動能力を惜しんだ大内田は母校の日体大への進学をすすめ、力を貸す。

「あの時、先生と再会してなかったら、俺は鉄道マンで一生を終わっていたかもしれん」
 日体大の1年時(1969年度)にはチームにとっても初となる日本一を味わう。第6回大学選手権は早稲田に11−9、続く第7回日本選手権でも富士鉄釜石(釜石シーウェイブスの前身)を29−13で破った。

 卒業後、和歌山で保健・体育の教員になる。2年目を終えた1975年、母校の淀川工に帰る。大内田が再び動いた。
「先生は、俺の枠を空けて岡本を呼び戻す、と話しておられました」
 土井崇司は当時を知る。東海大大阪仰星を歴代5位、全国優勝5回の名門に育て、今は東海大相模の校長をつとめている。

 土井もまた大内田の教え子である。岡本と入れ替わりで異動した金岡(かなおか)で、部活指導をバスケからラグビーに変える。土井はバックスとして競技を始めている。

「仰星創部の時は弱くてね、どこも相手にしてくれなかった。そんな時でも、岡本先生は、いつでも来い、と気軽に練習試合を引き受けてくれました。ありがたかったですよ」



 仰星の創部は1984年。土井が作った。同年、岡本は監督として初めて全国大会に出場する。64回大会は3回戦敗退。優勝する秋田工に6−32。当時、仰星と淀川工の力は隔絶していたが、岡本は弟弟子を大切にする。

「あそこで全国に出られへんかったら、俺は監督をクビやったんやで」
 岡本は笑ったことがある。赴任10年目。日体大譲りの猛練習がようやく実る。夏合宿はスクラム200本やランパス1時間などを課した。ラグビー部の創部は1947年(昭和22)。岡本の就任まで8回の全国大会出場があった。うるさいOBは多かった。

 その最高位は選手時代と同じ4強進出。68回大会(1988年度)では茗溪学園に7−32で敗れた。この大会の決勝戦は昭和天皇の崩御で中止。大阪工大高(現・常翔学園)との両校優勝となっている。

 監督としての出場回数5は赴任した1975年以降、大阪の公立校ではトップ。島本の4を上回る。教え子にはパナソニック元監督の中島則文やNTTコミュニケーションズのフォワードコーチである斉藤展士がいる。

 岡本は40年以上も淀川工にかかわる。60歳の定年後は5年ある再任用期間をここで過ごした。その後は、近隣の小学校の学童保育指導員になった。保護者が働いている子供たちに、放課後、勉強などを教えたりする。

 小学校には中型バイクで通った。50歳で免許を取る。妻・眞知子は振り返る。
「病気が悪くなる1か月くらい前まで、学童にバイクで通っていました」
 最後まで教育者だった。

 人は必ず世を去る時が来る。
<どんな人生でも、その終末から逆算すればちゃんと帳尻が合っている、という考え方がある>
 司馬遼太郎は『台湾紀行 街道をゆく40』(朝日文庫)に書いた。日本兵として出征した台湾人が密林に潜み、29年を経て帰郷する中の一文である。彼は台湾で幸せに暮らし、5年ほどしてガンで亡くなる。

 岡本は淀川工科の中興の祖となった。定年と同時にその功績をたたえ、現監督の農端幸二(のばた・こうじ)を中心に「HERO CUP」(ヒロオ・カップ)が開かれる。今年12回目。昨年はコロナ禍で中止になったが、今年は来月21、22日の2日間、近隣の中学28校を集める。その農端もまた弟弟子。土井の後輩として金岡から東海大に学んだ。

 岡本の長男・吉隆は43歳。高校では監督と選手になる。大学は大西に学ぶ。現在は北摂つばさ高のラグビー部顧問。同じ府の保健・体育教員となり、孫娘の英茉(えま)にも会わせてくれた。

 司馬の書いたように、岡本の人生もまたその帳尻は合っている。