高校は大阪桐蔭。とはいえ、名に聞こえたラグビー部ではない。もうひとつの顔、進学校の側(がわ)にいる生徒だった。
そのハンディを秦隆太(はた・りゅうた)はものともしない。同志社の3年生LOは、今秋のリーグ戦出場が見え隠れする。チームは関西春季大会を6回目で初制覇した。
「Aチームが勝ったのはうれしかったです。僕たちBを相手に練習しますから。Bが強いとAも強くなります」
この春、秦は二軍のBチームまで上がった。上のAチームとともに天理に連勝する。7月4日、春季大会決勝で35−19。その前日、Bは31−21として、その先ぶれとなった。
「ジュニア(B)が天理に勝ったのも入学してから見たことがありません」
185センチ、100キロの体は日焼けに輝く。セットすれば獲物を狙うイグアナの目になる。
谷口順一はこの後輩を最高にほめる。
「同志社の中で、この2年間で一番伸びた選手だと思っています」
同志社ラグビークラブ(OB会)の運営を担う副理事長として、この春、レベルを問わずすべての試合を見た。谷口は在学中の1991年、FLとして日本代表に選出されている。
2年前の4月、秦は入部テストを受ける。内容はベンチブレス、スクワット、1キロ走や面接。「就職が有利になる」という安易な入部希望者をふるい落とすため、40年近く前からこの試験は続いている。
酒井優(まさる)は秦のことを振り返る。
「最初、ベンチが60キロ上がらなかったはずです。まあ、そういうトレーニングをやったことがないので、仕方ありませんがね」
酒井は主に育成担当のOBコーチである。
「ただね、コンタクト練習なんかで、すぐに起き上がって、何回も行くんですよ」
秦はリロードスピードについて語る。
「それはスキルではありません。気持ちがあればできる。そこは意識しています」
酒井は同期で同じくコーチだった萩原要との会話を覚えている。
「秦が同志社を救う日がくるかもしれない」
萩原はクボタに進みHOとして活躍した。
秦は1年夏にベンチを入部目標の90キロに到達させる。
「当たり方やハンドリングは満足いくまでやりました。30分とか、1時間とか。佐藤さんや萩井さんに教えてもらいました」
新人時の監督は萩井好次。フルタイムのコーチは今年3年目に入った佐藤貴志。2人は親身だった。
大阪桐蔭には中学から通った。秦の実家は兵庫の尼崎である。最寄り駅からJR一本、45分ほどで大東にある学校に着く。中2の時、友達に誘われラグビー部に入った。
「チームは最弱だったと思います」
地区は北河内。東海大仰星を中心に強豪がひしめいていた。
高校ではラグビー部に「入られなかった」。秦のコースは中高一貫。競技はⅢ類と呼ばれる体育・芸術コースでしか認められていない。野球部や吹奏楽部など11の強化クラブの部員はみなこのⅢ類に在籍する。
Ⅰ類は京大を中心とする最難関、Ⅱ類は国公立大を目指す。この1988年に創立された私立共学校は文武を別にする。ラグビー部は98回全国大会(2018年度)で桐蔭学園を26−24で破り、初優勝。野球部は春夏甲子園優勝8回を記録する。大学進学は2020年、東大に8人、京大に33人を送り込んでいる。
秦は机に向かう青春を送る。高校では帰宅部。ラグビー部監督である綾部正史やコーチの山本健太による保健・体育の授業は受けた。けれど、距離は遠かった。その状況でも楕円球への渇望がふつふつと湧き上がる。
「高2の時、1こ上が全国大会で準優勝しました。やりたい、と思うようになりました。勉強がしんどかったのもあったと思います」
全国頂点直前の97回大会では、決勝で東海大仰星に20−27で敗れた。ひとつ上の主将はFLの上山黎哉。同級生の優勝主将はCTBの松山千大(ちひろ)だった。
「全く面識はありません。Ⅲ類の人たちとは校舎も違いましたから」
2人は帝京に進んでいる。
同志社には指定校推薦で入った。理工学部で専門は電子工学である。
「半導体を使った勉強をしています」
来年は最上級生になる。
「社会人から誘ってもらえたら嬉しいですけど、まだまだ未熟です。自分が出られているのもケガをしている人たちがいるからです」
謙虚さがある。満足はない。
個人的な目標を口にする。
「ミツキさんのように刺さるタックルができるロックになりたいです」
南光希の名前が挙がる。182センチ、102キロの共同主将は肉弾戦の中心にいる。
チームの目指すところは決まっている。
「日本一です」
同志社の最後の選手権優勝は1984年度。19回大会からの3連覇だった。そこから40年ほどの時が経つ。
天理は前年度の選手権覇者。加えて関西リーグ5連覇中。その漆黒軍団に上の2チームがともに勝ったことは、紺グレ復活を予感させる。今や秦の突き上げは、経験者たちの競争心をあおり、チーム全体の底上げのため、なくてはならないものになっている。