ラグビーリパブリック

【ラグリパWest】アカクロ、沖縄を経て母校に帰る。細川明彦 [京都工学院コーチ]

2021.07.12

沖縄での生活に別れを告げ、母校の京都工学院(前・伏見工)のコーチに就任した細川明彦さん。高校時代にはSO。伏見工ラグビー部から初めて早大に進学した。チーム目標の書かれたボードの横で



 高校時代にすり込まれたのは「信は力なり」。アカクロを目指した修練の日々。南西の島にも飛んだ。

 細川明彦は楕円球と関わりを持ち続ける。

 そして、この春、母校にコーチとして帰る。名は伏見工から京都工学院に変わったが、全国高校大会V4の偉業は消えることはない。
「ファミリーのひとりとして、強いチームをもう一回作り上げていきたいです」
 37歳。柔らかい表情とは裏腹に心は燃える。

 OB監督の大島淳史の評価は高い。
「むちゃくちゃ助かっています」
 2つの理由を述べる。
「現役の時、ともに高い志を持ってやっていました。部員に求める部分は同じです。それに細川はSOだったので理論的。僕の苦手な部分をカバーしてくれます」

 大島は細川の2学年上。FLとして、170センチほどの体をぶつけまくった。2人が重なった2000年度、大島は主将として80回全国大会でチームを3回目の優勝に導く。決勝は佐賀工に21−3。卒業後は日体大に進み、京都市の保健・体育教員となった。

 大島が言う理論を細川は早稲田で身に着ける。大学選手権優勝は最多の16回。創部は1918年(大正7)。100年を超える歴史で磨き上げられた方法論がある。

 キックの精度を中心にバランスに優れる細川は自己推薦で社会科学部に合格。5段階の評定平均値は4.7あった。
「いや、伏見ですから」
 謙遜するが、勉強の継続と困難な目標に到達する粘り強さを示す。

 入学直前の競技歴は全国4強が残る。3年時の82回大会は東福岡に10−17。HB団を組んだのは田中史朗。日本代表キャップ75を持つSHは今、キヤノンに在籍する。

 伏見工のラグビー部から早稲田入学は4人。細川はその先駆けになる。1960年(昭和35)の創部から40年以上を経る。そのあとには前田吉寛、井口剛志、芦谷(あしや)勇帆が続いた。

 ただ、この先駆者は4年間、赤黒ジャージーに袖を通せなかった。最高は二軍のB。同期に曽我部佳憲がいた。卒業後、ヤマハ発動機でプレーするSOは長いパスなど攻撃的だった。チームは2、3年時に大学選手権連覇。4年時の43回大会(2006年度)は決勝で関東学院に26−33で敗れた。

「早稲田はストイックでした」
 上井草の寮、目覚めたら、3学年下のSH、櫻井朋広が床で寝ていた。
「筋トレをしすぎて、二段ベッドの梯子を上がれませんでした」
 WTBは空気抵抗をなくすため、体毛を剃る。すべては勝利に集約されていた。



 細川は在学中に中高の社会の教員免許を取得。卒業後、日体大で1年間の科目履修生となり、保健・体育のそれも取った。

 そして、沖縄にゆく。
 在学中に同期の近藤嵩と2人で名護高を教えた。日程は4泊5日。早稲田が1984年から毎年行っているコーチングだった。
「風景の美しさ、人もいい。ラグビーの普及に携わりたい、と思うようになりました」

 名護高の監督だった宮城博に相談する。要請が来たのは宮古島からだった。
「ググってびっくり、台湾やん、と」
 亜熱帯の島の西には、石垣島などを含む八重山列島があるが、台湾にも、沖縄本島に行くのも、距離はそう変わらない。

 島では宮古高を教える。監督の辺士名斉朝(へんとな・ただとも)を助ける。押しかけコーチのため、生活費はコンビニのバイトで稼いだ。夜中12時から朝9時まで働いた。
「時給は深夜でも900円くらいでした」
 2008年から2年滞在する。

 その後の2年はニュージーランドで暮らす。
「ワールドカップを見る夢がありました」
 首都・ウエリントンの日本食レストランで働く。2011年、ワールドカップが始まる。時を同じくしてメールで吉報が入る。

 宮古が名護を91回全国高校大会予選で25−21と破った。連続出場記録を11で止める。決勝ではコザに0−40も充実感を得る。
「夢を持たす、本気にさせるということですね。目の色が変われば、逃げなくなる」

 帰国後の2013年、再び宮古島に渡る。次は保健・体育の講師としてだった。中学で6年、高校で2年、教べんをとりながら、主に宮古高を外部コーチとして見る。その生活の中、母校からの呼び戻しが入る。

 今、府内を京都成章が席巻する。V4の85回大会(2005年度)以降、全国大会出場は伏見工の5に対し11。95回記念大会で両校が出てから、5大会連続で京都成章が花園に行く。伏見工は2018年度に京都工学院に校名が変わってから、出場はない。

 悩みながらも帰る決断をする。
「僕を必要としてくれていることを意気に感じました。自分の原点ですから」
 京都は生まれ育った場所でもある。競技を始めたのは13歳、音羽中の1年だった。家族4人、両親と姉と兄は今もこの地に住む。

 この4月から京都工学院の社会科の講師として、教壇に立ち、ラグビーを教える。
「細川が正教員になってくれたら、うれしいなあ」
 総監督の山口良治は言う。78歳。監督就任6年で伏見工を全国初優勝させた軌跡が、テレビドラマ『スクール★ウオーズ』になった。その伝説の指導者は期待を寄せる。

 目標は日本一?
「はい」
 簡潔な答えに覚悟がにじむ。今、大島の精神力に、細川の理論が加わる。深紅のジャージーの完全復活はその光度を上げた。