ラグビーリパブリック

どん底から這い上がるも難病で引退。加藤広人(サントリー)は、それでも前を向く。

2021.07.07

現在76キロ。筋トレで体重を増やそうと思っている。(撮影/松本かおり)



 引退の理由がケガだったら、どんな感情になったか。
 仕方ない。それもラグビーの一部。そう思えただろうか。
 実力の世界だ。戦力外通告なら諦めもついたかもしれない。

 潰瘍性大腸炎。まさか、それでラグビーができなくなるなんて思っていなかった。
 サントリーサンゴリアスの加藤広人(LO/FL)が現役から退いた。早稲田大学から加入して3年の在籍だった。
 ドクターストップを受けた。

 最初は受け入れられなかった。
 症状が出たのは昨年。コロナ禍で打ち切りとなったリーグ戦後のことだった。
 お腹を下すことが度々あった。下痢が続く。腹痛。食欲不振。発熱。いまに治るだろうと思っていたのに、一向に快方に向かわない。
 チームドクターの指示を受けて詳しく調べると、前出の病名を告げられた。

 国が指定する難病だった。
 免疫が暴走して自身を攻撃する。結果、腸内が荒れて炎症を起こす。血便、貧血、倦怠感なども伴う。安倍晋三前首相と同じ病気だった。

 トヨタ自動車の川西智治(HO)も同じ病と長く戦いながらグラウンドに立ったと聞き(2020-2021シーズンを最後に引退)、機会を見て話をさせてもらったこともある。
「川西さんは闘病しながらプレーを続けられていたので、勇気をいただきました」
 でも、自身の復帰は叶わなかった。

 一日に30回もトイレに向かうこともあった。寝ていても1時間おきに目が覚める。
 きちんと治しましょうと入院。絶食が2週間続いた。点滴で栄養を体に入れ、続いて栄養剤入りの飲み物だけで1週間。
 体重は大きく減った。

 筋力も落ちて練習にも加われないから、グラウンドに行っても居場所がない気がした。スタッフの手伝いを志願した。
 アナリストの仕事をサポートした。試合日は早くから現場に乗り込み、戦いが終わればコーチ席の後片付けもやった。

 そんな活動を続けながらトレーニングの時間を見つけ、少しずつ筋肉を取り戻す。体重も90キロ台に戻り、「もう少しで復帰かな」という時期もあった。
 しかし再発した。

 再検査。そして、ドクターとの面談があった。
 治療には強い薬を服用する必要があった。だから治療、一時回復、再発…の繰り返しは体への負担が大きい。さらに重篤な状況を招く可能性があると言われた。
 ラグビー人生でなく、もっと長く続く人生を考えての決断が必要だ。ドクターストップがかかった。

 頭では仕方ないと理解できた。
「でも、受け入れられませんでした」
 生きる希望を失った。
 宣告を受けた日、「話したいことがあるので、時間をとってもらえませんか」と、先輩の中村駿太(HO)に連絡をした。サンゴリアスへの加入以来、グラウンドだけでなく酒席でも関係を深め、お世話になっていた。
 現実を伝えるうちに涙がとめどなくあふれた。

 朴訥な秋田男。小学2年生のとき、金足西少年ラグビースクールで始めたスポーツを、秋田北中、秋田工と続けた。早大では主将だった。
 高校日本代表、U20日本代表、ジュニア・ジャパンと、各年代で代表に選ばれるも、サントリーでの試合出場は1年目の1試合だけだった。
 2018年10月20日におこなわれた日野戦の後半に途中出場した(脳震盪の疑いがある選手に代わって一時出場した後、後半36分から入れ替えでピッチへ)。

 2年目はコロナ禍でシーズンが途中打ち切りとなり、3年目は病に苦しんだ。
 3季の在籍中、実働は1年目のみだった。

 そのルーキーイヤーも辛かった。
 同期の堀越康介(PR/HO)、梶村祐介(CTB)、尾﨑晟也(WTB/FB)らがどんどん試合に出場する中、自分だけカヤの外だった。
 練習では、当時の沢木敬介監督から、いつも厳しい言葉が飛んできた。

 いまでこそ「自分のやるべきことをクリアにしないままやって、ミスしていた」と振り返ることができるが、当時は追い込まれた。
 同じ秋田出身の沢木監督の厳しさに、「俺、なんでこんなに怒られているのだろう、と。相当、悩みました」。
 同期は褒められ、試合に出ていた。どうして自分ばかり、と。
 いますぐにグラウンドから出ろ、そうしないなら練習を再開しないからな。そう言われても食い下がって、走り続けた日もあった。



 くそっ。
 最初はそんな感情しか湧かなかったが、やがてベクトルを自分に向けられるようになり、状況は変わる。
 黙々と自分のやるべきことに集中した。それが認められ、前述の日野戦で23人のメンバーに入ることができた。

 底を見たところから這い上がれたから、いま、「その瞬間、瞬間はやり切れた」と振り返られる。「死ぬほど厳しくしてくれた(笑)沢木さんには感謝しています。お陰で成長できたと思っています。やっぱり、このチームを選んでよかった、と思えた」と言える。

 1年目も含め、府中で過ごした3年間が順風満帆な生活ではなかったからこそ得られた感情がある。
 病に苦しんで裏方に回った最初の時期、志願してその役回りに就いたのに、胸中は複雑だった。

 試合を見ながら自分も出たいのに、と思う。ミスが出たら、何やってんだ、と心の中でつぶやく。
 志願は、チームのためでなく、自分の居場所探しだったのかもしれない。

 でも病気が再発し、ドクターストップがかかったあとは気持ちが変わった。
 自分がいま、こうなっているのは、誰のせいでもない。環境のせいとも違う。コントロールできないことに、不満を募らせても仕方がない。受け入れるしかない。そこで、全力を尽くすだけだ。
 そう思えるようになってからは、変わった。

 誰かが良いプレーをする。
 練習で頑張っていたからな、とつぶやく。
 チームが勝つために自分も力になれるのではないか。自ら探し、動いた。
 チームメートがさりげなくかけてくれる「ありがとう」の言葉を素直に受け入れられるようになった。

 社会人になってからの3年。思うような結果を残せず、「俺ってダメだな」とネガティブばかりになっていたかもしれない。
「そんなとき、ある人が言ってくれたんです。そんなことないよ、と」
 これまでやってきたことを、みんな知っているぞ。胸を張れ。そんなエールに聞こえた。

「嬉しかった。各年代で代表に選ばれてきました。いつも試合に出られていたので、そうでなくなり、自信を失っていました。
 よくも悪くも、まだ(会社に入って)4年目。挽回できる。しっかり社会経験を積んで、立派な社会人になりたいですね。(7月1日から新しい部署、職種となり)いまは新人と同じだと思っています。ラグビーのない世界に初めて飛び込んで不安ですが、精一杯やりたい」

 加藤は小学生のときに書いた作文に、将来の夢をふたつ書いた。
 ひとつは、高校ラグビーで花園に行くこと。2つめは、サントリーに入り、日本代表になることだ。
 最後のひとつ以外は叶えた。
 そしていま、新たな希望を胸に秘めている。

「高校ラグビーの指導をしている大学時代の同期に、教えにきてよ、と言われています。ラグビーに育てられたと思っているので恩返しができたらいいな、と」

 引退が発表され、自身のSNSでお礼の気持ちと病気のことを発信したら、予想をはるかに超える人たちからメッセージが届いた。
「本当に多くの人たちに支えられていると、あらためて分かりました。ラグビーを通して、本当に多くの縁に恵まれました」

 寄せ書きにはいつも「尽力」と書いてきた。もともと、人のために動くことが好きだ。プレーヤー人生の最後に裏方を経験し、今後の自分の生き方も見えた気がする。
「指導の機会をいただけて、くさりそうになっている選手がいたら、声をかけたい。自分の経験を伝えられたら」
 ラグビーを嫌いになる選手だけは見たくない。

トップリーグは1試合だけの出場も、這い上がってつかんだものだった。(撮影/松本かおり)