誰も想像できないラグビー人生だった。
「ヤマハらしさ」を象徴するひとり、粟田祥平がジャージーを脱いだ。
トップリーグ2021はリーグ戦全試合に出場。開幕から4戦は6番を背負う。キャリアの絶頂期を過ごしているように見えたが、実は腰痛に悩まされていた。
新チームが始動してまもなく、椎間板ヘルニアを発症。リーグの延期が幸いし開幕直前に復帰するも、しびれや痛みが残った。
「相手とぶつかった時のシンプルな強さがなくて、100%力を発揮できないもどかしさがありました。今年で30歳になることもあり、ここで区切りをつけようかなと」
来季へのリクルートも考えて決断するなら早めにと思っていたけれど、まだやれるという気持ちも同居していたから最後まで悩んだ。堀川隆延GM兼監督に伝えたのはリーグ戦が終わってからだ。堀川監督も「来年もいて欲しい」と一度は止めたけど、最後は決断を尊重してくれた。
「自分で決断したから後悔はありません。ヤマハに来て、FWに挑戦させてもらえて本当に良かった」
189センチ、102キロ。体格に恵まれ、ヤマハにはFBとして入団した。力強いボールキャリーが持ち味で五郎丸歩の後継ぎと期待されるも、キャリアはFLで終えた。
2017年夏の北海道合宿で、清宮克幸監督(当時)の打診を受けFLに転向。なかなか出場を重ねられない日々過ごしていた4年目のことだった。
「思うように活躍できず、試合に出るイメージができなかった時に、ちょうど清宮さんから話がありました。BKとしてはクビなんだなと。FWもたぶん厳しいけど、チャレンジしないで終わるのも後悔しそうだから、最後やれるだけやろうと思いました」
もがくことに決めたけど、これまでずっとほぼFBで生きてきたからFWの知識はゼロ。FWを見てきた印象はほかのBKの選手と変わらず、「絶対あんなきついことしたくない」と思っていた。「痛いし、汗だらけやし、最初はほんまに嫌でした(笑)」。
日本一のセットプレーを掲げるヤマハのこだわりも、はじめは当然分からなかった。そんな中で翌年の開幕戦でまさかの先発を任される。とにかく必死に走り続けた。
年を重ねるごとに、FWの魅力にも気づいた。
「スクラムで膝の高さを1、2センチ下げたり、0.5歩だけ詰めたりと、慎さんの言うことが少しずつできてきて楽しくなった。誰かがサボったら成り立たないし、誰かがしんどそうだったら助けたりと、FW8人の一体感は今まで感じたことないものでした」
社会人でのコンバートだけでもレアなのに、粟田は学生時代にも、誰も通ることのないストーリーを歩んできた。
ラグビーは吹田ラグビースクールで5歳から始めた。中学はバドミントン部にも所属し、市の大会で優勝するほどの腕前だった。だから高校からはバド一筋と決める。だが千里高校に入学すると、どこからかラグビー経験者という情報を聞きつけたラグビー部の顧問、榎本孝二先生に捕まってしまう。そのまま入部させられた。
「僕の中では榎本先生は清宮さんと張るくらい怖い (笑)。よろしくと言われたら無理と言えないオーラがありました」
大学で続ける予定はなかったが、またも榎本先生に導かれる。高校最後の花園予選、1回戦の前半終了間際に肩を脱臼した。粟田は最後だからと意地でも出ようとするが、榎本先生に止められる。チームは逆転負けを喫して、高校生活を終えた。
「お前はラグビー選手としての今後があるから無理するなと言われました。大学で続ける予定はなかったのに(笑)。でもこれでラグビーが終わりと思ったら寂しくなって、まだ終われないと思ってしまった」
関西学院大にはラグビーとは関係のない自己推薦で入学。粟田は肩の手術を受けて、リハビリからスタートした。ここから何度も何度も不運が襲う。
復帰した翌日に前十字靭帯を断裂した。2年生が終わるころにようやく戻ったが、本人曰くD戦で10分程度の出場しかできなかった。
だがアンドリュー・マコーミックがヘッドコーチに就任して状況が一変する。プレースタイルが認められ、一気にAチームまで昇り詰めた。3年の春には関西大との定期戦(関関戦)で、初めて15番のファーストジャージーも貰った。だがその直後に前十字靭帯をまたも断裂。出場は叶わなかった。
自暴自棄になることもあったが、幸運にも4年時にヤマハからトライアウトに誘われる。奇しくもそのトライアウトの週末には、昨年逃した関関戦があった。再び公式戦デビューのチャンスを得たが、今度は参加したヤマハの練習中に重度の肉離れを起こす。15番のジャージーをやむなく返却した。結局、粟田は公式戦だけでなく、ジュニアリーグ(B戦)、コルツリーグ(C戦)にも出場できずに大学を卒業した。
「ヤマハに来た時は自分だけではなくて、周りも大丈夫なのかと思っていました(笑)」
七転び八起きの25年だった。
何度も辞めようとしたし、活躍できない日々の方が長かったかもしれないけど、FWに転向して最後の最後にチャンスを掴んだ。
続けていれば必ず良いことがある。
苦しかった学生時代を嬉しそうに振り返る粟田の表情がそれを物語る。
ラグビーを続けてよかった。