トップリーグ2021が終わる1か月ほど前、自分からチームのGMに現役引退の意向を伝えた。
入団から5シーズンを過ごした。年数に関係なく、「やり切った」と感じたから決断した。
ラグビーを大好きなまま、ジャージーを脱いだ。
上原哲の歩んだラグビー人生は、この世界のいわゆる一般的な道とは違う。
茗溪学園高校では花園の芝を踏めていない。
大学は明治学院大。関東大学対抗戦Aで戦ったのは3年時だけだ。
それでもトップリーグでプレーできた。このスポーツが大好きで、どんなときも夢を諦めなかったからだ。
「Bリーグからだってやれました。環境を言い訳にすることなく、必死にやればできます。同じ境遇でプレーしている人たちの励みになれたら嬉しいですね」
明学大のOBでトップリーガーとなれたのは、自分を含め3人だけ(塩山瑛大、赤堀龍秀=ともに先輩でリコー)。そう聞いて可能性は低いと諦めるか、夢があると思うか。それによって人生は決まる。
上原は後者だった。
小学4年生のときに松戸ラグビースクールに入った。高校で茗溪学園に進学したのは、花園に憧れていたからだ。
でも、思いは届かなかった。
1年時、先輩たちは聖地の芝を踏んだ。
しかし、自分が10番のジャージーを着るようになってから、2年時は決勝の常総学院戦でインジャリータイムの逆転負け。3年時は清真学園に競り負けた。
チームを勝たせられなかった。
司令塔としての悔しさが、その後の上原のエナジーとなった。
明学大をAに昇格させたのは2年生の時だ。入替戦で成蹊大を破り、チームを高みに導いた。
この年の学習院大戦、相手チームのFBは現在サントリーで活躍する江見翔太だった。
関東大学対抗戦Bのその1試合のグラウンドから2人のトップリーガーが生まれた。夢がある。
キヤノンでの日々を振り返ると、1年目のデビュー戦、リコー相手の試合が印象に残っている(2016年9月16日)。
「(目指していたところに)たどり着いた。スタートラインに立った。そんな日でしたので」
試合終了間際からの出場。約3分のプレー時間だったか。モールを押した。
在籍5シーズンの中で、もっとも出場機会の多かったのが2年目だった。この年は順位決定トーナメントも含め、主にFBで11試合に出場した。
1年目の1試合出場から飛躍的に成長したのは、1シーズン目終了後に参加した関東代表での経験が大きかった。NZに遠征し、NZU(NZ大学クラブ選抜)と戦った。
「他チームの選手たちと一緒に過ごす時間がすごく刺激的で、勉強になりました」
そう振り返る。向上心に火がついた。
その年は、サンウルブズに練習生として呼ばれる期間もあった。
短い期間だったとはいえ、トッププレーヤーと練習をともにしたことは成長のスピードを高めてくれた。
トップリーグのオフィシャルファンブックの個人寸表欄には『歩くラグビーマガジン』とある。
「昔からラグビーが大好きで、いろんな形で情報を得てきました」
だからキヤノンに入った時、菊谷崇、小野澤宏時というジャパンのレジェンドと風呂場で一緒になると「おおっ」となった。
ウィリー・ルルー(南アフリカ)、アダム・トムソン(NZ)などワールドクラスもいた。
夢のようだった。
2018年にはイズラエル・ダグ(元オールブラックス)もやって来たから、驚いた。
「大好きで、携帯(電話)のトップ画面にしていたこともありましたから」
「目標を持ち、それに向かって走り続けたラグビー人生だった」と振り返る。
「社業でも同じように目標を持って頑張りたいと思います。イーグルスOBとして、ラグビー部OBはやるな、と言われるようにしたい」
しばらくは、のんびりラグビー観戦を楽しみたいと笑う。そしていずれ、経験を大学の後輩たちに伝えたいとも思う。
トップリーグはいいぞ。
諦めずに走り続ければ夢は叶うぞ。
自信を持ってそう言える。