そんなときって、部屋に入った瞬間に分かると聞いたことがある。
まさに、そんな感じだった。
5月の宮崎合宿だった。ラスト3日間、スコッド内で試合をおこなった。その最終日の夜、全体ミーティングの前に呼び出しがかかった。
セブンズ日本代表として歴代最多のキャップ62を誇る坂井克行は、胸騒ぎがした。
「聞いていた通り、入った瞬間に分かりました。岩渕さん(健輔/男子セブンズ日本代表ヘッドコーチ)の顔が、いい話をする表情ではなかった」
日本ラグビーのミスター・セブンズ。そう呼ばれる男の、東京オリンピックへの道が終わった。
20人いた第3次オリンピックスコッドは宮崎合宿を経て16人になった。坂井は、そこで外れた4人のうちの一人となった。
チームがフォーカスポイントとしていることへのパフォーマンスを評価した結果、いまの自分は選べないと言われた。
実力不足。
潔く、その宣告を受け入れた。
コロナ禍の前も含め、自分の起用法や合宿での日々の出来を踏まえ、薄々気づいていた。
でも、それが現実のものとなると「ショックでした」。
ただ、いつも最悪のことを考えるようにしていたから、取り乱すことはなかった。用意していた振る舞いができた。
もし自分がスコッドから外れたら、こう言おう。
あらかじめ考え、胸に秘めていたのは、練習相手への志願だ。
この先も続く準備期間中に、オリンピックスコッドと戦う相手チームのメンバーに入れてください。
そう頼んだ。
2016年のリオ五輪では4位に躍進したチームの一員だった。
最初にセブンズ代表に選ばれたのは2011年の香港セブンズ。10年以上もこの競技に取り組み、「セブンズに育てられた」といつも言う。
そんな男は、「(多くの選手が)オリンピックに出たいのは分かるが、それだけでは寂しい。セブンズを好きになってほしい」とことあるごとに話してきた。
リオ五輪の直後、ショックを受けた。大舞台で4位の成績をあげてセブンズに追い風が吹くと思ったのに、何も起こらなかった。
五輪後に開催されたワールドラグビー・セブンズシリーズのドバイ大会への出場メンバーからは、リオ組、そこを目指していた選手たちの多くの名が消えていた。
日本でのこの競技の未来を憂いた。「セブンズを好きになって」の発言には、そんな背景がある。
セブンズが好きだから、代表を目指し続ける。その先に五輪がある。
坂井は自分の生き方をそうしてきたから、今回も、五輪落選の宣告を受けても、チームに寄り添い続けたいと言った。
万が一ケガ人が相次いだ場合、自分に少しでも再招集の可能性があるなら、と。
「外れたことを告げられた夜は、朝まで寝られなかった。早朝にチェックアウト予定だったので夜のうちに荷物をまとめ始めたのですが、いつの間にか朝になっていました」
6月に入り、第4次オリンピックスコッドの東京合宿が始まった。
合宿の終盤には試合形式練習の相手を務めるため、外国人選手など、全国から選手たちが集められた。
坂井はそこに、同時期に五輪スコッドから外れた小澤大、中川和真、林大成らとともに参加した。
思い切り戦った。
セブンズ日本代表のジャージーを着る者たちは、この国でいちばんこの競技がうまくて、賢い者たちの集団ではないといけない。そんな信念を持ってやってきた。
「そうだから、最終的に選ばれた12人への最大のリスペクトは、本気で立ち向かうこと、と思って」と話す。
坂井を選んでおけば良かったな、と思わせるぐらいのパフォーマンスを出そうと思っている。
非常事態が起きて、自分に声がかかったらすぐに合流できる状態にしておくつもりだ。
12人には、そんな渾身のチャレンジを退けて、五輪の舞台に立ってほしい。
そうなったらスッキリする。そして、日本のセブンズを託す。五輪で大暴れして、セブンズの魅力をアピールしてほしい。
そして五輪が終わったら、また一緒にプレーしよう。
東京合宿中に代表組と試合をして気づいたのは、「あらためて、セブンズって楽しいな、好きだな、と」いうことだ。
だから力が入った。純粋に楽しめている自分の姿から何かを感じ取ってもらえたらいいな、と思った。
「オリンピックのメンバーも、負けるわけにはいかない、と必死になるでしょう。この人たちの前で恥ずかしいプレーはできないな、と思ってくれてもいい。そういうことが、チーム力の上昇に繋がればいい」
東京合宿では第4次オリンピックスコッド16人が12人に絞られた。しかしチームは、五輪が終わるまで16人で活動していくことを決めている。
坂井は、そこに自分たち以上にメンタル的にきつい選手たちがいることに気を配る。
「代表メンバーとして発表された12人以外の4人は、最後まで一緒にいる覚悟はできていると思います。でも、それでも、途中、いろんな感情が湧くと思います。12人だけ五輪ウェアをもらえて自分たちはもらえないなど、そんなことも含め、辛いことがあると思う。その選手たちにも、(すでに落選している)僕が楽しそうに、必死にプレーしている姿を見てもらえたら、何か影響を与えられるかな、と思っています」
宮崎合宿で落選を告げられた夜、真っ先に報告したのは、長くセブンズ代表で時間をともにした桑水流裕策だった。
東京合宿でチームメートになった近鉄のサナイラ・ワクァには、「僕は小学生の頃から(香港セブンズなどで)あなたのプレーを見ていました」と言われた。
セブンズに乾杯。
本当に、そんな人生を歩んできた。
五輪後も必要とされるなら、できる限り大好きなこの競技を続けていきたい思いはある。
そのとき、東京オリンピックの好成績でセブンズが盛り上がっていたら嬉しいな。
頼んだぞ、仲間たち。
精一杯挑む俺をねじ伏せて、世界を驚かせて。
【筆者プロフィール】
田村一博(たむら・かずひろ)
1964年10月21日生まれ。1989年4月、株式会社ベースボール・マガジン社入社。ラグビーマガジン編集部勤務=4年、週刊ベースボール編集部勤務=4年を経て、1997年からラグビーマガジン編集長。