挙式はつい5日前、6月最後の土曜日だった。
高校時代のラグビー部、同期のマネージャーが伴侶となった。
新しい人生が始まる。
三島藍伴(あいばん)はキヤノンイーグルスでのプレーヤー人生を終えた。在籍4年。トップリーグ2021がラストシーズンとなった。
社業に専念してほしい。チームのGMにそう告げられた。
最後のシーズンは公式戦の試合出場なし。昨年もピッチに立てなかった。
持ち味を発揮したのは2年目だった。リーグ戦全10試合に出場。カップ戦の全5試合中3試合でプレーした。
トライは6つも、体を張ったプレーと忠実な動きで信頼を得た。
173センチ、86キロ。外国人選手の多いWTBのポジションで勝負するため、人の嫌がるプレーでは負けないようにした。
キックチェイスはすべて、必ず全力で。ディフェンスでは相手が走り出す前に、詰めのタックルで仕留めた。
学生時代まではフィジカルの強いランナーとして勝負するも、トップリーグには強い選手はいくらでもいる。
「だからステップを研究し尽くしました」
自分の生きる道を探し続けるラグビー人生だった。
2年目は充実していた。
在籍した4年間の足跡を見ればそう書きたくなる。しかし、その表現は間違いだ。「すべてのシーズン、(同じように)全力で取り組みました」と言う。
「こう(戦力外と)なってみると、もっと(努力)できたのかもしれません。でも、すべてのシーズン、必死にやりました」
4年間、充実した日々を送ったと胸を張って言える。
キヤノンでは、出場メンバーたちが対策を立てるために仮想敵となる試合外メンバーを「ライザーズ」と呼ぶ。チームを盛り上げる、そこから這い上がる意味が込められている。
そのライザーズで全力を尽くした。試合当日のバックアップメンバーになることを常に監督に志願した。出場メンバーのサポートをして、試合前練習を盛り上げた。
万が一負傷者が出たらいつでも代役が務まるように、その準備も怠らなかった。
そんな生活を4シーズン続けたけど、試合に出場できたのは2年目だけだった。
それが勝負の世界だ。
これからも同じように努力し続けようと思っていた。いや、もっとやる。もっとプレーしたい。でも、叶わない。
それも勝負の世界だ。
頭では理解しているけれど、心が鎮まらない。多くのファンが見つめる中でプレーする快感を知っているから、余計に現実を受け入れられない。
忘れられない試合は、2年目の東芝との開幕戦だ。秩父宮ラグビー場で26-20と勝った。
1年目に試合出場を得られなかったから、オフの間に課題を改善してつかんだデビユー戦だった。
トライラインに迫るFLリーチ マイケルに何度も、低く、激しく刺さった。
1点リードの後半35分には自らトライを挙げて勝利を引き寄せた。
その攻撃は、HO庭井祐輔の顔面キックチャージから始まった。敵陣に入り込み、最後はFL嶋田直人からのパスを受けてインゴールに入った。
「(立命館)大学の先輩たちがつないでくれて取れたトライなので印象に残っています。もともと、僕がトップリーグに入りたいと思ったのも、あの人たちの背中を追ってのことでした」
ラグビーは大阪府立摂津高校で始めた。
中学時代までは陸上競技で円盤投げをやっていた。高校でも続けようと思い、部室を訪ねようとすると、その前にラグビー部の部室前で声をかけられた。
次の日にはジャージー一式とスパイクが揃えられていた(贈呈でなく自己購入)。夢中になれるスポーツと出会った。
立命館大学に進学したのは、その年の花園で優勝した常翔学園との練習試合がきっかけだった。
百点差以上の完封負けも、ボールタッチの多かった自分を相手チームのコーチが見ていてくれた(立命館大学の赤井大介コーチが、当時は常翔学園のコーチも務めていた)。
その縁で道が拓いた。
キヤノンにはトライアウト経由での入団だった。
コーチからの紹介で最初はチームの練習に2日間参加するも、前日に大学の練習で顔に裂傷を負う。そのせいで当日は顔面テーピングの状態。得意なコンタクト練習への参加を止められてしまう。
最終的には、合同トライアウトを経て入団が叶った。
強い意志で自ら活躍の場をつかんできた人生は、このまま、太く、短いまま終わるかもしれない。
「まだプレーを続けたい気持ちがあります。それを実現できる場を探したい」と話すも、現実は厳しい。
心は揺れたままだ。
それでも、三島藍伴は幸せだ。
会社には残ってほしいと言ってもらっている。仕事は開発者のサポート。コミュニケーションを取り、先を読んで動くのはラグビー仕込みだから、職場でも評判がいい。
妻は、揺れる夫に「あなたの思うように」と言ってくれている。
生きてきた道が間違っていなかった証拠だ。これからも、同じように生きる。
その誠実さは、社会のどこでも通用する。