「まだ、引退をした実感はありません。シーズン終わりのオフは毎年のことなので。チームが再開してみんながプレーし始めたら、少しは何か感じるかもしれませんね」
こんな人がいたから、クボタスピアーズは強くなった。
◆2010年9月4日、TL第1節のクボタ3-34神戸製鋼から。今野は2年目のシーズン
2009年入社のバックファイブ、今野達朗がスパイクを脱ぐ決断をした。戦った12シーズンはチームに浮き沈みがあり、さまざまな経験をした。下部リーグに落ち、3年目でキャプテンシーを担い、スピアーズでのプレー後半の時期はケガとの格闘も続いた。どんな立場にあっても、勝利のため飄々とベストを尽くした道のりを聞いた。*聞き手:成見宏樹/文中敬称略
−−引退を決めたのはいつでしょう。
今野 シーズン前なので、2020年からの年末年始あたり。チームの上の方と、毎年1on1で話すのですが、「どう、(来年も)いけそうか?」と聞かれる感じでした。「ちょっと厳しいと思います」と。これまでは「もうちょい、いけます」と答えていたのですが。
――理由は。
今野 体が痛くて、もう無理でした! はははっ。6年前くらいからずっとケガが連なってしまって。
腰のヘルニアを元々持っていたのですが、騙し騙しやっていたのが、足にしびれが出るようになって、腰の手術をしました。治ってみたら、今度は左ひざがひどく痛むように。おそらくずっと良くない状態にあったのに、腰の故障の影になっていたんですね。ひざを手術することになって、復帰に2年弱かかりました。
――スピアーズでのキャリアの後半は、ずっとケガとの付き合い。
今野 そのあとは右ひざ、手の腱…。
――練習量は調整していたのですか。
今野 一つのポジションに複数の選手がいれば、練習には交互に入るのが普通ですよね。5対5。それが、時間的に6対4になり、7対3になり…。先発出場する立場にはなかったので、与えられた時間をまっとうできる準備はしていました。が、リハビリの時間も増えて、何か他に役に立てることはないかと考えて。椎名さん(純代/通訳・メンタルトレーナー)というスタッフの方がいて、話を聞いてもらっていました。周りの人に対して果たすべき役割はないか。一緒に、考え方を整理してくださった。自分にとっては大きな励みになりました。
始めたのがラインアウトの分析でした。シーズン中、相手チームのラインアウトを見て、向こうがやってくることを整理する。それを、練習の中でメンバー外の選手に再現してもらう。自分の状況を分かってくれてか、特にFWコーチの(アランド・)ソアカイは、僕にいろいろなことを任せてくれた。
数年前に比べると、みんなの理解度が上がってきた。その週の頭に伝えたものが、週の間にある程度できるようになっている。
――そのぶんメンバーは、よりリアルに相手の対策ができているのですね。
今野 クボタではチームを戦艦に例えていて、メンバー外の選手達とのことをボルツと呼んでいます。巨大な船にあって、部品同士をつなぐボルト(BOLT)の役割をするという意味で。毎週、メンバーが発表されるのが月曜。その日のうちにLINEのトークグループを作って、その週のボルツのメンバーに予備知識を入れておきます。火曜、相手のラインアウトについてのプレゼンをして、チームに理解させます。
――今野さんは選手の立場にいながら、それができるように毎週、準備を進めていたわけですね。
今野 月曜にメンバーを外れたばかりの当落線上の選手たちは、少なからず落ち込んでいます。それでも、すぐに切り替えて、積極的にボルツとしての役割を果たそうとする。同じチームの選手ながら、そもそも、そこが偉いなと思います。
――今野さん自身もそうでしょう。みんなのためにできることを探している。ラインアウト一つとっても、今、チームはそういう雰囲気があるんですね。
社会人3年目で背負ったキャプテンシー
――キャリア前半は、本来のフィールドでの活躍、目覚ましかったですね。入社2年目にはオーストラリア留学。ブランビーズと報道されましたが、おもにキャンベラ・バイキングスでのプレーでした。
今野 ラグビーの捉え方、フィジカル、ウエイト・トレーニングに対する考え方、いろいろ勉強になりました。
――3年目、イーストに降格した年にキャプテンに。重要な時に、リーダーに指名されて大変でしたよね。
今野 やってほしい、と言われたら、やるしかないですよね。それにしても、あの時はチームの雰囲気が……。
――周りは先輩ばかりの中で、どんよりした雰囲気のチームをどう引っ張ろうと。
今野 プレーでがんばるしかない。先輩方も一人ひとりは協力的だし、自分が若いから苦労したとは思っていません。苦しかったのは、ただただ結果が出ないこと。練習もしんどい中で、みんな歯を食いしばってがんばっている。それでもうまく回らない。不満や不服みたいなものが出てくる。
落ちて2年目は(’11年に続いて、’12年もトップイースト残留)、さすがにまずいぞと、みんなが必死になったことが一つ。もう一つは、トウタイ・ケフという指揮官(元クボタ所属のNO8)を得たことが大きかった。僕も1年は現役として一緒にプレーできたので、初めからチームの信頼感を得ていました。
――同時に、いちプレーヤーとしては、充実の時代ですね。
今野 楽しかったですね。取り組めば取り組むほど自分が変わっていけた。留学の経験も自分なりに考えて反映させたり。ポジションもいろいろやりました。同じ試合で3つのポジションでプレーしたこともあります。7番はしんどかったですね。ははは。
――最後のシーズンは史上最高戦績で終わりました。長くチームを見てきて、今年のスピアーズが結果を残したことには、どんな必然性があると思いますか。
今野 チーム文化ですよね。さっき、降格した時代のチームに触れましたけど、あの時だってみんな仲は良かったし、しんどい練習にひたむきに取り組んでました。ただ、その雰囲気が、結果によって左右されることがあった。
フラン(ルディケ:ヘッドコーチ)が来てからは、その文化が一つひとつ、言葉にで表されて、常にみんなに使われている。結果が出ていない時も、「言わなくても分かるでしょ」という時にも口にして、確認する。
チームのスローガンて、昔は人によって意識の濃い淡いがあったと思うのだけど、今は、全員が大事にしていると感じますね。
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起伏が激しく、辛い時代の方が多かった。過去10年のクボタスピアーズの足跡をあらためて振り返ればそう映る。特に、フランHCが指揮を執って以降の時期に、選手としては万全の状態では過ごせなかった今野にとってはなおさらだろう。
いつも落ち着いた笑顔で、淡々と話す今野は自らをドラマチックには語らない。チームが厳しい時代に選手としての全盛期を過ごし、思うような体調でプレーできなくなってからも、チームのためにできることを模索し、前向きに取り組んだ。選手たちにラインアウトを教える場面が増えてからは、自らトップコーチの資格も取得していた。
今のスピアーズをスピアーズたらしめているもの。それは、今野のような選手たちが繰り返した毎週毎週、一日いちにち積み重ねた模索と革新の結果だ。オレンジのジャージーを着る人々にとっての「当たり前」を作り上げた人がここにもいた。
PROFILE
こんの・たつろう/1986年11月28日生まれ、34歳。高1の時にラグビーを始める。茗溪学園ー筑波大ークボタスピアーズ(2009年度入社)。元7人制日本代表。スピアーズでは加入3年目のシーズンに主将を任された。日本ラグビー協会A級コーチ