ニュージーランドに根づくラグビーカルチャーは本当に深い。
6月3日、『New Zealand Rugby Museum』のFacebookに53年前の出来事がアップされた。
掲載された写真は、当時の雑誌の表紙。そこに立っているのは赤白の段柄、サクラのジャージーを着た若き日の坂田好弘氏だ。
添えられたテキストには、「1968年6月3日、日本(代表)はNZジュニアーズ(23歳以下NZ代表)に23-19で勝利した。 日本のヒーローはデミ坂田で、この日は4トライを挙げた。 ニュージーランド・ジュニアーズは、バックラインに6人、フォワードに3人の未来のオールブラックスを擁する強力なチームだった」とある。
ラグビー王国にとっては屈辱の一戦。その試合の映像は、どこかに葬られたという話もあるほどだ。
しかし50年以上経っても、この試合の価値を伝え、ヒーローを称えようとする人たちがいるのがラグビー王国。そんな文化があるから、坂田氏はいまでも現地で英雄視されている。
当時26歳だった坂田氏は、現在78歳。2012年にはアジア人初となる「ラグビー殿堂」入りをしている。同年から2020年春まで関西ラグビー協会会長を務めた。
京都・洛北高校でラグビーを始め、同志社大時代に日本代表に選出された。その後、近鉄でプレー。大体大監督としての長い指導歴も持つ。
1967年から1973年にかけて日本代表キャップ16。NZジュニアーズ戦は3キャップ目となる試合だった。
ウェリントンでおこなわれたその試合で、坂田氏は4トライを挙げた。歴史的勝利で活躍したWTBを現地の人々は「Flying Wing(空飛ぶウイング)」と称賛した。
翌1969年にニュージーランドに半年間留学したときには、カンタベリー州代表、NZU(NZ大学クラブ選抜)、NZバーバリアンズなどに選出された。
日本代表が未来のオールブラックスたちをやっつけたことに世界は驚いた。大西鐵之祐監督は、素晴らしいチームを作って王国に乗り込んだ。
同試合は10戦が組まれたNZツアーの第8戦だった。「展開、接近、連続」をキーワードに、ショートラインアウトやCTB横井章を軸にした、日本独自の戦い方で相手を翻弄した。
FB萬谷勝治を絡めたサインプレー『カンペイ』はNZの防御を何度も崩し、その結果、6トライはすべてバックスで奪ったものだった(当時はトライ=3点)。
今回の記事を知った坂田氏は、「今朝、(日本の)知人からも『おめでとう! きょうは、あの日だぞ』と電話があり、それで思い出しました。自分でも忘れていることをNZの人たちは覚えてくれているんですね。感激です」と話した。
坂田氏の力強い走りの記憶は、『デミ』の愛称とともにキウイたちの思い出の中にある。