院内は感謝のこもった色とりどりのスポーツグッズや色紙に囲まれている。
ラグビー、野球、大相撲、バレー…。ジャージーは深紅の神戸製鋼。全選手のサイン入り。黒いユニフォームはメッツ時代の新庄剛志。阪神左腕の岩田稔のものがある。
陣内健(じんない・けんじ)は日焼けした顔をほころばせる。
「ほとんどの患者さんはスポーツ外傷ですね。お年寄りは数パーセントです」
院長である「じんない接骨院・鍼灸院」の割合を伝える。自身は鍼灸と柔道整復の免許を併せ持っている。
時間が空けば、「イチアマ」(市尼)呼ばれる高校のラグビー部のコーチ兼トレーナーになる。正式名称は尼崎市立尼崎である。
「始めたのは平成20年です。ああ、もう14年目に入るのですね」
時の早さに驚く。前任者が急きょ辞め、あとを受けた。
市尼の練習や試合に参加できるのは基本的に週3回。休診の水曜と土曜の午後、そして日曜だ。水土は大阪・都島区の院から豊中にある第2グラウンドに車で通う。
部外コーチは有料だ。ただ市からもらう報酬はしれている。ボランティアに近い。監督の吉識伸(よしき・しん)は感謝がわく。
「非常に助かっています。ケガをしてもすぐに処置をしてもらえるし、ラグビーもよく勉強されています」
吉識は今年52歳。保健・体育教員でもある。同じ兵庫県の報徳学園から大阪体育大に進んだ。陣内より1学年下になるが常に敬語で接する。練習は任せ、外から見守る。
「船頭が多いと船は前に進みませんから」
丸い顔を緩める。
陣内の指導の軸はオーストラリアだ。
「息子が中学の時、半年ほど留学をしました。その時、お世話になったホストからすごい量の資料が送られてきました」
8年前のことだが、その資料をベースに自身の経験を落とし込む。
ラグビーを始めたのは東灘に入学後。市尼や報徳学園と同じ兵庫にある県立校だ。
「格闘技と球技が混ざって面白い」
ポジションはFL。監督は田中康憲。大体大OBで今は県協会の会長をつとめている。
「今でこそ優しいけど、当時は怖かったです」
その田中の下で猛練習に励む。
「夏合宿で、トイレの側溝の水を飲んだ記憶があります」
当時、給水はご法度だった。
疲れ果て、泥に近い水をすすった経験は生きる。3年の春、報徳学園と6−12、全国大会予選は3−6。点差は6から3に縮まり、県内トップを追い詰める。この1986年度、報徳学園は66回目の本大会に出場。3回戦で準優勝する熊谷工に3−37で敗れる。陣内のいた東灘は全国レベルにいたことになる。
大学は東洋医学を学ぶべく、京都にある明治鍼灸(現・明治国際医療)に進んだ。
「父方のおじ2人も医師、兄も歯科医師になりました」
医療は近いところにあった。
卒業後は阪神球団に近い関目病院など3院に勤務。カイロプラティックの資格も得る。
「ラグビーは生きていますね。特にコミュニケーションの部分。患者さんと話をして、情報を取り出す。そして、治療につなげます」
コーチやトレーナーは競技に対する恩返しの意味合いもある。市尼と並行して、大阪の都島工でもトレーナーをこなす。
2000年5月に現在の場所に新規開院した。大阪メトロの都島駅から徒歩1分の好立地。
「関目病院につとめていたこともあって、このあたりで物件を探していました」
隣の城東区にある古巣と物理的な距離の近さやこれまでの結びつきは心強い。
今年、22年目に入った。コンビニより多い、と言われる中、治療院は存続する。通勤に使う車の駐車場代は市価の3分の1。患者からそんな申し出を受ける生き方を続ける。
治療の合間に見る市尼ラグビーの歴史は古い。創部は1948年(昭和23)。学制改革で新制高校になった年に定めている。同じ学校は市尼を含め9校。それ以前は神戸(旧制神戸一中)と兵庫(同二中)があるのみだ。
全国大会出場はない。県予選の決勝進出は97回大会。0−95で全国8強入りする報徳学園に敗れた。陣内の助力もあって、市尼は報徳学園と関西学院の2強に続く、実力校のひとつになってきている。
5月30日、県民大会(春季大会)は星陵に19−42。春を県8強で終えた。
「相手の2年生ナンバーエイトの突破を許してしまいました」
吉識は敗戦を振り返る。市尼は主軸の2人がケガで出場できなかったことも響いた。
勝敗にかかわらず、主将の川口昇馬の陣内に寄せる信頼は揺るがない。
「理詰めで説明してくださるので、試合中、何をしたらいいか明確です。ケガもすぐに見てもらえます。ほかの高校ではこういうことはないと思います」
165センチの小柄なFLは、これからも教えを守り、選手28人をまとめていく。
陣内は言う。
「私は勝利至上ではありません。でも、やるからには勝たせてあげたいと思っています」
その献身が、大きく報われる日が来るまで、二足の草鞋(わらじ)を履き続けたい。