ラグビーリパブリック

【ラグリパWest】40年前。思い出は鮮やかに。

2021.05.24

報徳学園をOB監督として率いて25年目になる西條裕朗さん。浪人時代、ニュージーランドに半年留学したことが指導のベースになっている。校内ではマスク着用のルールを守ります



 はちゃめちゃな思い出はいいですね。今に至る原型が作られます。

 報徳学園の西條裕朗監督は還暦手前。ラグビー部を率います。全国大会出場は46回。そのうち3回に正PRとして貢献しました。つまり、1年生からレギュラーでした。

 浪人時代、英語習得とラグビーを兼ね、ニュージーランドに留学します。
「ちょうど、出発は今ごろやったねえ」
 当時の前田豊彦監督のすすめでした。

 40年前、往復航空券の値段を覚えています。
「46万円でした」
 空路は特別で高価な移動手段でした。
「飛行機に乗ったことがなかったので、搭乗の予行演習ということで、大阪から東京まで行くのに使いました」
 兄・誠一さんが出ていた法大の試合を秩父宮で見ます。

 一大決心の初海外。なんとかの歩き方なんてガイド本はありません。トランクは2個になり、重量は20キロオーバーでした。
「おふくろは目の前で新札の1万円を10枚切って、超過料金を払っていました」
 中には親戚のおじさんのものを仕立て直したスーツが2着。現地で着る機会は、もちろんありませんでした。

 出発の大阪・伊丹空港には下級生部員たちが現れます。母は重ねて偉かった。
「後輩たちに、『これでお茶でも飲んで下さい』とお金を渡していました」
 万歳三唱で送り出されます。

 伊丹から成田に向かい、乗り継ぎます。
「乗客は10人くらいでした」
 フィジーのナンディで新婚旅行の3組ほどが下りたため、ニュージーランドの玄関口、オークランドでの降機は3人でした。

 いきなり試練が襲います。南島のクライストチャーチに向かう国内線のターミナルはバスに乗るほどの距離。英語は話せません。

「乗客の日本人に助けてもらいました。ニチロ(現マルハニチロ)の人。その人がいなければ、どうなっていたかわかりません」

 地獄に仏。きっと、それまでの行いがよかったのでしょう。そのビジネスマンは、魚の買いつけのため、インバカーゴに駐在する途中でした。姫野和樹さんが所属するハイランダーズの本拠地、ダニーデンよりさらに下る南極に近い港町です。



 乗り換え手続きを一緒にしてもらって、無事にクライストチャーチに着きました。ディック・ホクリーさんらの出迎えを受けます。この留学の世話をしてくれたホクリーさんは、同志社の大学3連覇にスポット・コーチとして貢献します。連覇は西條監督が留学した翌1982年度から始まりました。

 ホームステイ先は閑静な住宅地のシャーリー。ホストは3兄弟。彼らとシャーリー・ボーイズ・ハイスクールに通います。
「当時はアバウトでね、日本語と体育の授業だけ顔を出して、あとは図書室で英語の自習をしてました。授業が終われば、週3日のラグビー部の練習に顔を出してました」

 ホームステイ代も家族は受け取らず。
「それがホームステイ、と言われたけど、申し訳ないんで、食費は払ったと思います」
 夕食は肉、マッシュポテトなどが1枚の皿に乗るワンプレート。昼食は冷蔵庫にあるものでめいめいがサンドイッチを作っていく。質素や子供の家庭内独立を知ります。

 校内には技量によっていくつものラグビーチームがありました。西條監督はファースト・フィフティーンと呼ばれる一軍に入ります。試合後のアフター・マッチ・ファンクションの慣習もその時に知ります。

「ファンクションはレフリーが感想を言って、両チームのキャプテンの話に続きます。驚いたのは出席したコーチたちは何も言いませんでした。高校生に任されていました」
 ここでも自主性を感じます。

 ファンクションの本番は実はそのあと。
「公民館のようなところにメンバーが集まって、その彼女なんかも来たりして、ダンスパーティーのようなことがありました」
 アルコールが出たかどうかはさだかではありません。車で移動している時に、同乗者がサイドブレーキをかけ、スピン。びっくりしたのに、みんなは笑っていました。

 オークランドに定期戦で渡ったあと、帰りはホストブラザーとバスで北島を縦断し、南島に戻りました。泊まりは1日目=ガレージ(車庫)。2日目=離れでした。
「そんなとこで寝たことないし、2泊目は普段使っていないから、ほこりがもうもう」
 雨露がしのげればいい、という言葉や人はどこでも寝られることを知ります。

 思い出をたくさん持って西條監督は半年後に帰国。次の春に法大に進みました。社会科の教員免許を取り、教員として1997年、母校に戻り、ラグビー部監督につきました。

 そして、四半世紀が経ちました。ある強豪大学の強化担当者は言います。
「報徳の子は楽しそうにラグビーをやっている。だから上で伸びる子が多い」
 その底には西條監督が感受性豊かな10代を南半球で過ごした幸せがある。鮮明な記憶はその表れでしょう。

 報徳学園の新入部員は38人。3学年で104人になりました。この数字は1952年(昭和27)の創部以来70年目で最多。「すべての経験は振り返ればつながっている」。そのことが示されている気がしています。