タナカさん、いくつになりました?
「えーっと、71」
日本にはいつお帰りで?
「うん、2年前に引き上げてきた」
面長を崩す笑みは変わらない。
クライストチャーチでは日本食レストラン「田中屋」のオーナーシェフだった。ガーデン・シティーと呼ばれ、緑の芝生に赤や黄など花の原色が似合う街に伝説を残した。
田中屋レストランは1993年に開店した。ニュージーランド(以下、NZ)に調理師として渡ったのはその3年前である。
「NZってパプアニューギニアのあたりにあるの、って聞かれた、そんな時代」
当時、日本人が作る安価で味のよい日本食は珍しく、大にぎわい。ラグビー関係者も短期、長期の滞在を問わず通った。
「東芝の人たちとはウチの家でBBQしたり、帝京にはケータリングもしたよ」
名前を憶えているのは「クンダさん」。54歳になったGM薫田真広の現役時代を知っている。大学9連覇チームは鍛錬期にあたった。
「店で一番人気のあったのはカツ丼かな」
揚げたての豚カツを茶色の出汁が入った浅い小鍋に放り込む。玉ねぎ、青葱は是非もの。黄と白の卵でとじる。味はタナカさん出身の関西風。少し甘目。みな箸を止めない。お代は10NZドルほど(約600円)だった。
個人的にはチキンカツカレーが好きだった。揚げたての鶏に黄金色のルーがかかる。
「隠し味にプリンを作る時のカルメラを入れてた。苦みと甘みが増すんです。カレー粉は特製。コリアンダーやマサラが入ったのをインドの人にわけてもらっていた」
クォリティーは日本と変わらず。量は多い。
「大盛は2合くらいあったんちゃうかな」
客を満腹にさせることが生きがいだった。
この店に連れて行ってくれたのは愛称・らっぺ。街の目抜き通りのひとつ、アーマー・ストリートの頃だった。裏口に車を止め、厨房を突き抜け、テーブルにつく。
「それが早かったら、それでええやん」
タナカさんはこだわらない性格だった。
日本食は、グロスター・ストリートに「さらさら」、パークロイヤルホテルに「倉敷」などがあった。ただ、値が張る。安い日本食はワーキングホリデーの素人が作っていた。タナカさんは洋食出身。製菓もこなした。
その歴史は料理だけにとどまらない。人助けもする。NZで暮らしたい者のため、永住権のバックアップもした。
永住権を取るためには、ジョブ・オファー(就労証明書)が必要だ。雇い主にとっては職を作らないといけないし、その人間がその職と関りがないと却下される。
ある日、ジョブ・オファーを探す女性とカテドラル・スクエアー(街の象徴である白とグレーに輝く大聖堂の前)で遭遇した。知り合いのところに一緒にお願いに行ったが、取得する難しさの説明だけで終わった。
空腹を感じ、田中屋に入る。留学中のラグビーマンも同席した。従業員にジョブ・オファーのことを話しておく。タナカさんが出勤してくる。テーブルに来てさらっと言った。
「ええよ。ウチでバックアップする」
ひらがなの「え」に濁点がつき、音引きがずっと続くくらいびっくりした。
この女性のこと、知らないでしょう、タナカさん、どうして?
「一緒にごはんを食べている顔ぶれや本人を見ればわかるよ」
鮮やかな人間像、そして人の一生が決まるところを同時に見る。日本ではなく、NZで得難い光景が重なった。
女性はタナカさんの関係していた会社で働き、ジョブ・オファーを得る。望み通り永住権を獲得し、一児の母になっている。
「俺は持ってきた書類にサインしただけやから。なんにもしてない」
恩を着せない姿勢は今も残る。面倒をみたのはひとりではない。
田中屋は人に任せた後、居酒屋をやった。一度締めた田中屋を自分で再度、グロスター・ストリートでやったりした。
「地震で閉めて、それっきり」
2011年2月、この地方を襲った大激震により、日本人を含む185人が亡くなった。大聖堂も崩れ落ちた。
同年秋に開催されたワールドカップで、クライストチャーチでの試合はなくなった。
「ドレッドヘアーの彼もよく来てくれて、日本代表のみんなを連れてきます、って言ってくれてんけどね」
堀江翔太もこの街に滞在時、常連だった。
日本に戻ってきたのには理由がある。
「母親が97歳。元気で、食事とか身の回りのことは自分でできるんやけど…」
何かあれば、すぐに飛んで行けるようにしておきたい。30年近く親元を離れた。今は実家のある愛知県内にパートナーと暮らす。
「主夫してるよ」
タナカさんのごはんが毎日食べられる生活は悪くない。
これから、どうします?
「先のことはわからへんよね。気が向いたら、またNZに戻るかもしれんし」
永住権を持つため、コロナも関係はない。
「人生、楽しいよ。日本でずっと生きていたら、小さくまとまっていたかもしれん。人のつながりは今ほど広がってないよね」
タナカさん=田中正幸はひとつの生きざまを示している。