「ああ、彼はいいですよね」
大人たちの評価はみな同じ。高い。
中尾晃、伊藤紀晶、酒井優…。
同志社ラグビーでの役職はそれぞれ、副部長、ヘッドコーチ、コーチである。OB首脳の期待を集めるのは一澤慎之助。唯一の学生コーチはこの春、4年生になる。
監督待遇の伊藤は話す。
「一澤は佐藤の一言を広げていける。選手が理解しやすいように補足できます」
佐藤貴志はただひとりのフルタイムコーチ。毎日の練習を組み立てている。
一澤はパイプ役を心がける。
「コーチのみなさんは社会人なので、学生がしゃべりにくいことがないようにしていきたい、と考えています」
その指導は的確だ。ラックで相手をはがす練習では、形態を交え、短い言葉を使う。
「脇を締める」
つけ根が甘いと下から手が出ず、相手を排除する力に結びつかない。
「選手には改善点を話します。フィードバックは丁寧にして、何が悪いかを示す。けなさないようにしています」
その学びは佐藤から。
「知識量はすごいし、自信を持って話される。部員への影響も大きいです」
OBでもある佐藤は現役時代、SHとしてヤマハ発動機と神戸製鋼に在籍した。日本代表キャップは4を持つ。
佐藤のコーチ資格は最上のS。一澤はその入り口である「スタート」。間には上からABCと3つの等級が挟まっている。
一澤は入学時、SHだった。2年に進級直前、選手からの転向を打診される。当時、監督だった萩井好次や佐藤からだった。
「真面目な部分が評価されたようです」
自分の中では10分前集合が当然。スポーツ健康科学部に学ぶが、要卒単位はゼミと卒論をのぞき、ほぼ取得済みだ。
最初は首をタテに振れなかった。
「情けなかった。選手としては実力不足、と言われているのと同じことだと思いました。やりたくなかったです」
萩井や佐藤は言い続ける。
「チームというのは、選手だけじゃない。スタッフが裏で支えている。だから、選手は思い切ってプレーができるんだ」
半年して、迷いは消えた。
今はよかったと思っている。
「選手なら、自分のグレードだけ。でも、コーチならAチームを含めて、すべてのチームを見られて、貢献できます」
本当の意味で紺グレの一員になる。
一澤は元々このジャージに近かった。
父・史朗はOB。所在地から「岩倉」と呼ばれる同志社高出身。SOとして高3時、1984年度の高校日本代表に選ばれる。166センチと小柄ながら、俊敏。その代の主将は副部長の中尾。天理高出身のFLだった。
「父のことは色んな人から聞いています」
父が司令塔だった同志社高は同年度、64回大会に出場する。HOは武伸。弟は世界的ジョッキーの豊である。LOの井村洋はFLとして高校日本代表に入る。8強で熊谷工に4−10で敗れるが、旧制中学時代に優勝9回を果たしたチームにとって、最後の全国大会出場になっている。
一澤以外にも卒業生の二世選手はいる。
同じ新4年のPR舘本覚(=たちもと・かく、父・健、母・珠実=旧姓・小池)とLO池内琢人(父・信司)である。
一澤がコーチとして有利なのは、英語を使える点にもある。アンドリュース・ベッカーが来た時のことを伊藤は挙げた。
「的確に訳したと聞いています」
今、神戸製鋼のアシスタントコーチは元南アフリカ代表のLO。同僚だった佐藤の招きに応じ、京田辺に来る。
英語はマレーシアで身に着けた。元イギリス領で2歳から中3までの14年間を過ごす。父は清水建設を退社後、事業を起こすべく、渡海。一澤はバイリンガルに育つ。
競技は8歳から現地のクラブで始めた。高校は同じ帰国子女の多い同志社国際に通う。
「林先生が忙しく、経験者が少なったので、僕がメニューを考えたりしていました」
監督の林昌一郎に代わり、日々の練習を見ることもあった。その経験も今につながる。
今年はコーチ3年目。就活との並行になる。
「マレーシアにいたから、東南アジアが好きです。物価が安いですし、暑いけど湿気が少ないから過ごしやすいです」
海外赴任のある企業も選択肢のひとつだ。
コーチングの持続も考えてはいる。
「難しいかもしれません」
就職として手を差し伸べてくれるチームがあるかどうか。可能性を高めるため保健・体育の教員免許は取得予定だ。
最終学年の目標を定める。
「日本一です。でも、そのためには天理に勝たないといけません」
昨年は関西2位。大学選手権を初制覇する黒衣にリーグ戦は21−54で敗れている。
関西優勝から5回目の大学頂点へ。その青写真を天然色にするためにも、チーム内の底上げは欠かせない。一澤に課せられた使命は大きい。