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弱小高校からHonda HEATへ。筑波大卒のWTB山本悠翔は自分の可能性を信じる

2021.04.01

WTB山本悠翔は刀根山→筑波大→Honda HEATと進む(撮影:髙塩隆)

 山本悠翔(ゆうぞう)は3月25日に筑波大の卒業式を終えた。
 次のステージでもラグビーを続ける。翌日にはHonda HEATのある三重県鈴鹿市へ向かった。

 大学ラグビー界で見ても決して名の通った選手ではない。筑波大で対抗戦、大学選手権に出たのは計7試合。うち5試合がリザーブでの出場で、4年時は立大戦のみだった。
 それでもホンダは山本の加入を決めた。リクルーターの向久保孝さんは山本のチャレンジャー精神を高く評価する。

 トップリーグ昇降格を繰り返していたホンダは、2季前に最高位となる9位まで這い上がった。その姿が山本と重なった。

 山本は大阪の刀根山高校出身。小中はクラブチームでサッカーをしていた。そのままサッカー部に入るのが既定路線だったが、それまでとの温度差を感じて入部を辞めた。
 5月まで「ふらふらしている」と、当時ラグビー部の顧問だった鈴山大陽(ひろあき)先生に捕まる。ここで楕円球と出会った。

 部は合同チームが続いていたが、山本の代に12人が入部。卒業してからまた合同チームに戻るが、3年間は単独チームだった。

 もっとも大阪府予選を勝ち抜けるような強さはない。けれど、鈴山先生は山本をやんちゃ坊主からラグビー選手に育て上げた。
「誰の言うことも聞けない、常に怒られてるようなやつでした。でもラグビーを通して変われた。親にも『ラグビー始めてから変わったね』と言ってもらえました」

 大学はそんな恩師の母校である筑波大を目指し、1年の浪人期間を経て入学した。

 1年時は「闇の1年」と表現するほど苦悩した。一番下のチームからスタートしたが、その中でも「何をしてもうまくいかなかった。練習にも行きたくなくなりました」。

 転機となったのは10月に負った膝のケガだった。「リハビリの間、自分に足りないものとか、上を目指すために何が必要かを考えました」。
 そこで入学時に「ごぼう」と形容された184㌢、76㌔のウイングは、体重を6㌔ほど増やした。
「ケガが治った時に体力はさほど落ちてないし、スピードはむしろ上がった」

 気づけば仲間と当たっても負けない体になっていた。2年時の春季大会初戦から一気にAチームまで昇格。先発で出場してトライも決めた。

 そのまま対抗戦もデビュー。大学選手権の大東大戦では80分間、グラウンドに立った。「全然うまくいかなかったけど、大きな舞台でプレーできたことは財産です」。

大学2年時の対抗戦、成蹊大戦では2トライを挙げた(撮影:髙塩隆)

 この頃から社会人でもラグビーを続けたい思いが強くなった。きっかけは向久保さんのたった一言の声かけからだった。
「向久保さんが他大学との練習試合を見に来ていました。そのとき面識はなかったですが、すれ違ったときに『頑張ってね』と言ってくれたのをすごく覚えていて。自分なんかを見てくれてる人もいるんだなと思えました」
 だから山本の中ではホンダ一択だった。ホンダがダメなら一般企業への就職を考えていた。

 3年生の終わりに参加したホンダの練習も面接も緊張していたのは、向久保さんの目から見ても明らかだった。「口下手で言いたいことの3割くらいしか話せてなかったと思います(笑)」。ただ確かな意気込みだけは届いていた。

 無事にホンダへの加入が決まったが、課題は山積み。3年時はチーム内の競争に勝てず、対抗戦の出場は2試合に留まった。2年時からの課題を克服できずにいたのだ。
「自分の武器であるスピードを生かしきれていなかった。ボールをもらう時のポジショニングやタイミングが悪くて、相手を抜くことができませんでした」

 体重は92㌔にまで増えて、すっかり大型ウィンガーになった。パフォーマンスが良い時の爆発力は誰もが目を見張る。ただその再現度が低かった。

 そうした課題を抱えたまま、4年時はNO8へのコンバートを打診される。その要求を呑んだのは、決して課題から目を背けたわけではない。
「高校からラグビーを始めて、何も知らない状態でBK3をしていた。1年時からバックローの転向を勧められていたこともあり、自分の可能性を信じてみたかった」

 結果として出場できたのは1試合。立大戦で途中出場するも、まもなく腰痛に悩まされた。
「NO8に挑戦できたことは良かったです。知らないのことの連続でしたし、苦手だったラック後の球出しなど、BK3でも必要なブレイクダウン周りのスキルを改善できた」

 腰の痛みはいろんな筋肉の質の悪さが原因だった。筑波大附属病院の先生から、走る時に下腹部と臀部に力が入っていないことも指摘された。「自分の体を知らな過ぎました」。

 大学最後の年に活躍できなかったのは悔しいけど、ケガは自分を変えるきっかけをくれたと思ってる。

「そのおかげで伸びしろをたくさん見つけることができたので、いまは前向きに過ごせています」
 1年生の時に自分を飛躍させてくれたように、今回のケガも自分の可能性を切り開くチャンスと信じて疑わない。

 次なるステージで桜咲くことを自分自身が1番期待している。

筑波大の近くに咲く桜とパシャリ(撮影:BBM)