100年に一人の男である。
森田尚希は高校ラグビーの伝説。金メダルを3つ持っている。
愛称「ナオキ」は啓光学園出身。その3年間、正CTBとして冬の花園を負けや引き分けなしで終える。輝く金3つはその証(あかし)だ。
年1回の全国大会は100回、3ケタの大台に達した。新制高校の大会になった28回(1949年)以来、最長の4連覇はこの大阪のチームだけ。今は常翔学園の兄弟校だ。
大会不敗は81〜84回。2001年度からだった。ナオキはその連覇からロイヤルブールのジャージーを着る。
「運がよかっただけです。周りに恵まれた。今もありがたい気持ちでいっぱいです。自分が良かったなんて微塵も思っていません」
1年生だった82回大会決勝は東福岡に26−20とする。
「先輩方についていくので精一杯でした」
定位置奪取は抜群の運動神経。小学校入学後にレスリングとサッカーを始めた。格闘技は3年で全国2位。蹴球は京都の長岡四中時代、ガンバ大阪のジュニアユース入り。同期は本田圭佑。日本の顔と練習に励んだ。
ラグビーは中3から本格的に取り組む。
「倒れないことが評価される。自分に合っていると思いました」
啓光学園を選んだのは、3つ上の兄・茂希が在籍していたことが大きい。
83回大会決勝は大分舞鶴に15−0。今で言うダブルタックルを連発させた。
「記虎先生を最高の形で送り出そうとみんなで話していました」
監督の記虎敏和は龍谷大に移ることが決まっていた。ナオキたちは記虎の守備に寄ったロースコアのラグビーを体現させる。
84回大会決勝は天理に31−14。ナオキの入学前から続く連覇を4とする。
「杉本先生、やばいやろ。先生のために勝たないかん、とみんながなりました」
4連覇以上に新監督に恥をかかせられなかった。杉本誠二郎はコーチから昇格していた。チームはひとつにまとまる。
啓光学園のあと、東福岡が3連覇をする。5大会後の89回からだった。この時にも1年からレギュラーの2選手がいた。木村貴大(たかひろ)と藤田慶和(よしかず)である。
ただ、連覇を成した90回大会の決勝は桐蔭学園に31−31。引き分けだった。当時、FLだった木村は今、コカ・コーラのSH。藤田は日本代表キャップ31を持ち、パナソニックでWTBやFBをこなしている。
また、学制改革前の旧制中学の時代、連覇は同志社の5や日本が統治していた韓国・ソウルにあった京城師範の3などがある。しかし、修学年限は5年であり、最初の8大会はほぼ京都大会の観があった。
森田兄弟は4連覇すべてに同じ背番号13をつけて貢献する。兄の3年時は81回大会。決勝で東福岡に50−17と大差をつける。
「アニキと一緒に関われたのはすごいこと。一生懸命にやった結果でうれしいですね」
兄は立命館からNECに入り、現役を引退。今は社業にいそしんでいる。
ナオキは世代の日本代表に選ばれる。高校とU19。同志社では1年から公式戦に出場した。ただ、トータルで見れば、ケガや首脳陣と意見の違いなどもあり、華々しくはない。
「リザーブで最後の5分くらい出ました」
そう話す4年時の大学選手権は東海に31−78と大差負けする。45回大会(2008年度)の2回戦だった。
1年の留年ののち、近鉄ホールディングスに総合職として入社する。鉄道やバス、百貨店、不動産など150近くの会社を統べる社長になる資格を持っている。
「木村さんがええおっちゃんでした。会社のええとこばかりを並べませんでした」
当時、ライナーズの採用をしていた木村雅裕の誠実さに惹かれる。木村は愛媛近鉄タクシーの社長に栄転。ナオキは社員選手として、大阪・上本町の本社で経理部に勤務する。
新年度で入社12年目。8月が来れば35歳になる。ベテランの域に入っても、176センチ、88キロの体は躍動する。そのスピードや素早いパスなどでCTBやWTBをこなし、紺エンジのジャージーを支えてきた。
ただ、現在は右腕を痛め、2月14日に開幕のトップチャレンジ参加に出遅れている。
「織機戦を目標にしています。1日でも早く復帰したいです」
ライナーズは豊田自動織機との1位決定戦を戦う。4月3日、滋賀の布引で開催される。
チームの真の目標はその先にある。
その2週間後に開幕するトップリーグ主体のトーナメントだ。リーグ再編のため、入替戦は消滅。そのため、力を示せるのは一部相手のこの勝ち抜き戦になってくる。
チームの目標はトップリーグチームを2つ倒しての8強進出だ。
「中途半端。日本一にならないと」
高校時代、勝ち続けた記憶がよみがえる。
ライナーズは1929年(昭和4)創部。優勝回数はトップリーグの前身である全国社会人大会8、日本選手権3。その名門の復活に向け、ナオキの意気込みは強い。