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読谷高校はセンバツ初出場!石嶺傳實[読谷村長]は沖縄ラグビーを黎明期から支える。

2021.03.26

後輩たちの活躍を喜ぶ石嶺村長。「今は幼い時からラグビーをやってる。昔では考えられませんでした」(撮影:BBM)

 センバツがついに始まった。

 沖縄県の読谷高校は、実行委員会の推薦枠で創部初の全国大会初出場を決める。
 3月25日は茗溪学園に0―64と完敗を喫したが、今年は敗者戦がある。26日、同じく初出場の佐沼と激突する。
 読谷高校は1971年創部。今年がちょうど50周年にあたる。

◆読谷高校の九州大会の活躍はこちら

 読谷村の村長である石嶺傳實(いしみね・でんじつ)さんは、文字通り頬を緩める。
「(創部50周年の)記念すべき年に全国選抜大会に出場するということで、現役の皆さんが頑張ってることを非常に嬉しく思います」

 石嶺さんも高校、大学(琉球大)、社会人とラグビーに親しんだ。32歳までシーサークラブで現役を続け、その前後で沖縄ラグビーの発展のためにレフリーもやった。現在も読谷村長を務める傍ら、沖縄県ラグビー協会の顧問として沖縄ラグビーを支えている。
 石嶺さんは読谷高校ラグビー部の3期生。部の始まりを知っている。同好会からのスタートだった。
「私が入学する前の年(1970年)に、1期生と2期生が同好会を作りました。私が入学したときになって正式に部として認められました」

 当時の監督は沖縄ラグビーの礎を築いた安座間良勝先生。読谷→石川→コザ→宜野座と転任する先々でラグビー部を強くした名将だ。安座間先生と出会って、高校から始めたラグビーを好きになれた。
「当時のスポーツは厳しい指導のイメージがあったけど、僕らはとにかく褒められて、褒められて。とにかく『OK!』、『最高!』、『いってこい!』って褒め殺し(笑)。いつも楽しく乗せられてました」

 “乗せられた”結果、入部して2か月たらずで鹿児島で開催された九州大会にも出場した。1971年の6月だから当時の沖縄県は本土復帰前。沖縄県の高校、大学、社会人チーム含めて、初の県外遠征、県外試合だった。そのときの記憶は今でも鮮明に覚えている。
「パスポートを持って、予防注射をしてから船で鹿児島に行きました。沖縄の通貨はドルでしたから、向こうで初めて1000円札を見たときにやけに大きいなと(笑)」

 ラグビーの方は完敗だった。「入ったばかりの素人が試合に出られるんですから(笑)。いかにレベルが低かったか」。2試合対戦。1回戦は福岡高校に0―66で負けた。敗者戦の高鍋との試合も0―32だった。
「2試合とも出ましたが、ボールを触ったのは敗者戦の1回だけ。相手が蹴り込んだボールをインゴールで抑えただけです(笑)」

 福岡高校はこの年の冬、花園に出場してベスト4に入った。3年生には、のちの明大の主将になる西妻多喜男、早大で主将、監督を務めた豊山京一と南川洋一郎がいた。ともに元日本代表だ。そんなチームと対戦できたことは「マンガみたいな話ですよね」と笑う。ラグビーが作ってくれたいい思い出だ。

 楕円球はたくさんの仲間も与えてくれた。

 沖縄は決してラグビーが盛んだったわけではない。ラグビー部があったのは読谷、コザ、中部工業(美来工科)、豊見城の4つだけだった。4校は練習試合をするなどよく交流した。
 1973年に開かれた沖縄特別国体(若夏国体)でも彼らとともに国体の選抜メンバーとして出場した(対戦相手は福岡、兵庫、秋田)。今でも交流が続く仲間になった。
「国体を機に沖縄のラグビーが発展していきました」

 読谷村は特にラグビー熱が高い。夏には毎年、字(あざ)対抗と呼ばれる自治体対抗のスポーツ大会が開かれる。競技種目の中にラグビーもある。大学生、社会人が未経験者も引っ張って毎年5~8のチームが作られ、予選・決勝と2週にまたがって争う。読谷村では当たり前となった夏の風物詩だ。

 そんなスポーツ好きの読谷村は、長年さまざまなスポーツチームを合宿(キャンプ)に誘致してきた。リゾートホテルに加え、スポーツ施設が充実している。
 読谷は1972年の本土復帰時、軍用地が約74㌫を占めていたが、いまは約33㌫になった。徐々に返還されたこの土地(元は飛行場)に村役場が立ち、読谷中が移転され、陸上競技場、野球場、ソフトボール場とスポーツ施設も新たに建設された。まだまだ未開拓な土地も多く、今後は図書館や室内ドームの建設を視野に入れる。

読谷村は日本一人口の多い村。40000人以上が暮らす(撮影:BBM)

 だから合宿に来るチームは野球、サッカーはもちろん、ラグビーやソフトボール、パラリンピックの短距離チームなど幅広い。「このコロナ禍でもたくさんのチームが来てくれました」。
 2019年のワールドカップ前には残波岬で日本代表が合宿を実施した。男子セブンズ代表は23日から合宿を行っている真っ最中だ。
 ワールドカップの事前合宿でもアメリカ代表の誘致に成功。読谷での大会に参加したアメリカのセブンズ代表が15人制にも読谷を推薦してくれた。
 今度の東京オリンピックの事前合宿にも、男女のニュージーランドセブンズ代表が決まっている。ニュージーランド代表はすでに3度合宿に来た。
「ほとんどのチームがクリニックを開いて村民の子どもたちと交流してくれる。ニュージーランド代表はハカもやってくれました。村民にとってはいい影響。見に来た人は大喜びですよ」

 石嶺さんは村長を務めて今年で11年目になる。常に心がけているのは「読谷らしさとは何かということ」。
 読谷はスポーツ施設やリゾートホテルといった観光資源が多くあるだけではない。残波岬に車を走らせれば、農業地帯が広がる。やちむん(焼き物)や読谷山花織、紅型といった伝統工芸もある(すべて人間国宝)。名護の美ら海水族館にいるジンベイザメも実は読谷出身だ。

「なんでもありの町です」

 思えばラグビーもそうだった。
「中学まではサッカーをしてました。サッカーからすればラグビーは何でもありですよね(笑)。ボールを掴んでもいいし、相手にタックルしてもいいし、蹴ってもいい。これはなかなか新鮮で嬉しくて」

 これからも「なんでもあり」の柔軟な発想で読谷村を支える。

〈読谷高校は25日発売のラグビーマガジン5月号「高校物語」でも紹介しています。そちらも合わせてご確認ください〉

応接室にはラグビー関連のグッズがたくさん置かれる。「部室みたいですよね」と石嶺村長(撮影:BBM)