ラグビーリパブリック

【コラム】「大丈夫」は危ない。退く勇気も仲間のため。

2021.03.25

試合中の心理や認知は時に「非日常」なものになる(Photo/Getty Images)

 家のベッドで寝たのに、目が覚めたら学校のグラウンドに横たわっている。周りではジャージーを着た仲間が走っている。今はラグビーの試合中らしい。慌てて立ち上がり、走り出した…。

◆シックスネーションズのひとコマ。仲間と指導者と、本当の信頼関係があれば、いったん退くこともできる

 高校2年の時、初めて脳振とうになった。誇張ではなく、夢の中にいるような感覚だった。数時間分の記憶が消えていたのだろう。見慣れたグラウンドにいるけど、どういう状況かまったく分からない。

「これは練習試合?」「相手はどこ?」「今のスコアは?」。試合が止まる度、近くの味方から情報を集め、プレーを続けた。

 母校が安全への配慮を欠いていたというわけではないだろう。倒れていたのは恐らく一瞬で、ベンチは気付かなかった。何より、20年以上前のラグビー界は脳振盪への危機感が今より格段に薄かった。頭を強打して意識がもうろうとしても、立ち上がってタックルに行く姿はむしろ美談だった。

 今、脳震盪に対していいかげんな対応は許されなくなっている。脳に与えるダメージの深刻さや、何年も後に後遺症が出るケースも明らかになってきた。昨年、元イングランド代表のスティーブ・トンプソンさんら9人が国際統括団体ワールドラグビーなどに対して提訴の意思を明かしたことは大きなニュースにもなった。

 ワールドラグビーも安全対策には力を入れている。頭や首などを危険にさらすプレーへの取り締まりを年々厳格化。2019年のワールドカップで脳震盪の数は減ったと強調する。今月には、危険なプレーとして処罰する範囲を広げる措置を発表。ボール保持者が肘で守備側の頭を打った場合などが対象に加わった。

 日本のトップリーグでも今月、神戸製鋼のNO8ナエアタ ルイら3選手が頭や首への危険なプレーで4週間の出場停止になった。重すぎると感じる人もいるかもしれないが、世界的な流れの中ではやむを得ない判断だろう。

 脳震盪が大きな問題となっているのはラグビーだけではない。米アメリカンフットボールNFLも選手や家族らから相次いで訴訟を起こされている。サッカーでもヘディングによる後遺症が懸念されている。

 スポーツ界で頭のケガへの対処が遅れたのは、「見つけにくさ」が一因だろう。脳震盪では、痛みや出血などのサインが小さいことも珍しくない。おまけに、できるだけ長い間、フィールドに立っていたいという願望は選手の本能でもある。特に自らの意思で試合から離脱することをチームへの裏切りと感じる人もいる。だから周囲が脳震盪に気付かないまま、本人が無理をして試合に出場するという事態が起きてしまう。

「正常性バイアス」という心理学の用語がある。自分に都合の悪い情報を小さく評価し、自らの命も顧みず危険な行動を冒すような認知のゆがみを表す。

 脳震盪ではなかったが、この「罠」にはまった経験がある。大学の時、試合中に左目にパンチを受けた。目を開けると、視界は真っ白。目の前に画用紙を置かれたように何も見えなくなった。残り時間は30分。目に深刻なダメージを負ったことは認識していたのに、頭に浮かぶのはこんな考えだった。

「痛みは大したことがないからプレーはできる。自分から交代する理由がない」

「今日のリザーブには、自分と同じポジションを本職にしている選手はいない。片目が見えなくても自分がプレーする方がチームのためになる」

 片目が見えない恐怖から逃げるかのように、思考はどんどん根拠のない、おかしなものになっていった。

「視界が『黒』ではなく『白』ということは、目が光を感じることはできている。最悪の状況の一歩手前だから、まだやれる」

「試合に出続けた結果、片目を失明したとしてもラグビーができなくなるわけではない。大丈夫だ」

 結局、最後までプレー。病院へ向かうと、カメラの「絞り」にあたる虹彩と呼ばれる器官の損傷と判明した。眼球に入る光の量を調節できないため、フィルムが感光するように視界が真っ白になっているとのことだった。「どうしてすぐに病院に来なかったんだ!」。医師からひどく叱られたうえ、即座に入院する羽目に。後遺症もなく復帰できたのは幸運でしかなかった。

 振り返ると、「交代したくない」という結論から後付けで理屈をつくっていたうえ、その異常性を自覚できない状態に陥っていた。白状すると、プレーを続けた理由もチームのためというだけではなかった。どちらかと言えば、「タックルをして負傷したなら仕方ないが、パンチを受けて交代するのは恥ずかしい」という見栄が大きかった気がする。

 正常性バイアスを逃れるには、事前の備えが重要とされる。その点、エリート選手は本人や周囲も脳震盪の危険性を正確に認識している人が多いだろう。では、ラグビーを始めたばかりの若い人はどうか。 

 2017年、イングランドである調査が行われた。11~17歳の選手255人に脳震盪について尋ねたところ、同国ラグビー協会が推奨する待機期間23日間を守ってから復帰した選手はわずか11%だった。不適切な認識を持つ選手も20%いた。中にはこんな意見もあった。「重要な試合なら、脳震盪になっても交代するよりプレーに戻ることの方が大事だ」「自分が頭にケガをした後でもプレーを続けることを、チームメートは望んでいる」。

 平時から脳震盪を軽視する姿勢や、誤った責任感があれば、いざ頭を強打した時に正しい判断を下せるだろうか。誤った思考の枠組みに捕らわれてしまわないか。

 正常性バイアスが生死を分けたのが、10年前の東日本大震災だった。津波の常襲地帯で迅速に避難する人が多かった一方、そうでない地域では逃げ遅れて死亡率が高まる傾向があった。

 その反対に、事前の準備で正常性バイアスから逃れた例もある。2019年にワールドカップの舞台となった岩手県釜石市。子供への防災教育ではあるメッセージが伝えられていた。「君が逃げると分かっていれば、お父さんやお母さんも君を迎えるために学校に来る必要がなくなり、逃げてくれる。だから君も逃げよう」。避難は自分の命だけでなく、愛する人の命を守るため。試合会場の鵜住居地区にあった小中学校の生徒は率先して逃げ、犠牲者は一人も出なかった。「釜石の奇跡」と呼ばれる出来事である。

 重傷を押して試合に出ることがチームへの責任を果たすことではない。むしろケガを正直に話し、勇気を出して休むことが仲間への信頼の証し。

 仲間も君にそうすることを望んでいる。こう考える選手が増えれば、脳震盪による不幸な出来事を減らす一助になるのではないか。

シックスネーションズのひとコマ。仲間と指導者と、本当の信頼関係があれば、いったん退くこともできる(Photo/Getty Images)