ひとことで言えば、「人生が豊かになった」。
現在、ウエストロンドンのアクトンに暮らす鈴木彩香は、穏やかにそう話す。
脳震とうの影響で、3か月もプレーできていない。それなのに、自分自身が前進できていると感じられている。
女子日本代表のベテラン(アルカス熊谷所属)は、昨年11月15日に日本を発った。プレミアシップのワスプス(WASPS LADIES)に所属し、プレーするためだ。
2021年9月に開幕するはずだったワールドカップ(以下、W杯)に向け、ハードな戦いの中に身を置くことにした。女子日本代表ヘッドコーチ、レスリー・マッケンジーの後押しもあった。
31歳。セカンドキャリアの準備として、指導者になる未来像も頭にある。その基盤作りも進められればいいな、と思って渡英した。
しかし、ワールドカップは2022年に延期となる。「正直、戸惑いました」と言った。
大会時に最高のパフォーマンスを出すためのプランニングを描いていた。W杯は、自身の人生の節目と考えていた。
「考えていた計画を、すべて考え直さないといけなくなりました」
サポートを受けていた東京日野自動車との契約も、この3月で終了する。
W杯までは蓄えてきたものでなんとかしようと思っていたが、大会が1年延びたとなれば、そこで最高の自分を発揮するためには、それなりの資金が必要となる。
プレーヤーとしての向上とセカンドキャリアの準備、スポンサー探し。それらを、異国の地で並行して進めるのは簡単なことではない。
そんな状況でも、人生が豊かになった。充実している。そう言い切れるのは、仲間の存在があるからだ。多くの気づきをもらった。
フラットに5人で暮らす。
自分のほか、チームメートはアイルランド出身で、他の住人は南アフリカ、コロンビア、チェコからやって来た。
みんな、それぞれの生き方を持っている。
「チームメートは科学者です。いまはラグビーに専念していますが、(まだ若いのに)W杯が終われば仕事に戻る。ラグビーは大好きだけど、他にもやりたいことがたくさんあるから、と」
彼の地では特別なことではない。
代表レベルの選手はプロ契約で生活しているが、そんな一部の選手以外は自分のしたいことをしながらプレーし、高い競技レベルを維持している。
チームメートの日常と最近の日本の女子選手たちの境遇(クラブが雇用先を斡旋することもある環境)を比べた時、「日本の方がいいじゃん、と思ったんです」。
それなのに、両者の実力を比べれば日本は追いついていない。
「こちらに来るまでは、指導や練習の違いなどに理由があると考えていたのですが、そうでなく、選手一人ひとりのラグビーとの向き合い方にあるのではないかと考えるようになりました」
本当にそれが答えなのかは分からない。
だけど、自分がイギリスに来て感じたことを伝えていけば何かが変わるかもしれない。
現在の環境ではなかった頃から日本の女子ラグビー界で生きてきた。伝えられることはたくさんある。
「アスリートは、結果でしか(周囲やサポートしてもらっている企業に)貢献できないと考えていたかもしれません。実際、自分自身、それ以外に価値提供をできていなかった」
アスリートが企業に寄りかかる構図を、自分から変えていきたい。積極的に発信して、まずは同じ世界に生きる人たちに影響を与えたいし、その先に、女子ラグビーが社会に影響を与えられるようになったら幸せだ。
日本を離れ、最初からそう考えられたわけではない。
脳震とうの症状が出たのは渡英して1か月後。初めて試合に出たセール・シャークス戦でダブルタックルを受けた時だった。
強打はなかった。おそらく脳が揺れたのだろう。試合後、頭痛がした。頭が重く、違和感のある期間が長く続いた。
「(プレーができなくなって)自分はここに何をしに来たんだろう。そう思って落ち込んだ時期もありました。英語でのコミュニケーションも不自由。フィジオに痛みの具合も伝わらない。そういったことも重なり、気持ちが落ちたことも体調不良につながったと思います」
でも、仲間のお陰で状況が変わった。
「アジアからやってきて、まともに英語も喋れず、すぐに脳震とうでプレーできなくなった私にもどんどん話しかけてくれました」
その中で受けた刺激が自分を前向きにしてくれた。
この3か月、トレーニングといえばバイクを使った有酸素系のものぐらいしかできていないが、コーチの後ろに立って指導法を見つめたり、コーチと選手のチャットを見て考えたり。
試合を見つめる。日本ならこうした方がいいとイメージする。ピッチに立てなくても、やれることはたくさんあると気づいて楽になった。
「(復帰の)メドが立たない中、最初は焦りまくり、悲しみまくり、苦しみまくりました。ラグビーに早く戻らないといけないと、強迫観念みたいなものがあった。でも現在は、いま何ができるかを考えよう、いまだからできることがある、と考えられるようになっています。この時間を使ってW杯で勝つにはどうしたらいいのかと思い浮かべたり、セカンドキャリアの準備もしようかなとか、すごく前向きです」
シーズンは5月まで続く。その後は未定。日本へ帰国するかもしれないし、クラブに残る話もある。
そんな中で唯一はっきりしているのは、2022年のW杯でベストの自分を表現したいという強い意志があることだ。
脳震とうは大丈夫か。
そんな心配にも、「いつ引退しても後悔しない人生は歩んでいるつもりです」と、ここにも前向きな自分がいる。
エクセターで活躍する加藤幸子(21歳/日本では横河武蔵野アルテミ・スターズに所属)が試合でやってきた時は、近所のスーパーでお寿司を買っておいてご馳走した。
おいしい、おいしい。
笑顔で頬張る後輩の姿を、「本当にかわいいんですよお」と目を細める。
「さっちゃんとは、頻繁に連絡をとっています。こっち(イギリス)にいるんだから、その感覚で上下関係なしでいいよと言っても、最初はエ〜と言っていました。でも、いま完全に友だち感覚です。ラグビーのこととか生き方とか、いろんなことを話します」
グラウンドの上以外にもアスリートの活躍の場はある。
ラグビーも大好き。ほかのことも一生懸命やりたい。
そんな人生も「あり」で、そんなことは以前から頭の中で理解していたけど、本当にそんな生き方をしている仲間と出会って価値観が定まった。
「日本の女子ラグビーのカルチャーを、もっと良いものにするための活動も、自分のセカンドキャリアの中に付け加えました」と話す鈴木彩香は、肩の力が抜けていい表情をしていた。
新しい場所で、新しい自分に出会った。