ラグビーを始めてくれる高校生のために、必要なものを用意します。
——それは?
「ジャージー、短パン、ストッキング、スパイク、それにヘッドギアですね」
中山高広は約束する。八尾高校のラグビー部OB会の会長である。読みは「やお」。会は「かわちのラガー」と呼ばれている。500人を超える組織である。
チームに大事が出来(しゅったい)する。
昨秋、100回記念大会の大阪府予選後に5人いた部員が0になった。布施など13校で組む「G」は、近大附に7—80で敗れる。その直後、唯一の2年生が退部した。
グッズの無料は今年93年目を迎える部を維持するためである。
「また、15人が八尾のジャージーを着ているところを見せてほしいと思っています」
65歳の中山は緑×白の段柄の復活を望む。普段は数社の顧問をつとめている。
八尾のラグビー部は府内の高校で3番目の歴史を誇る。旧制中学時代の1928年(昭和3)に創部。その6年前に天王寺が、それに1年遅れて北野が部を作っている。
八尾に楕円球が伝わった翌1929年、隣の東大阪に当時、東洋一と言われた花園ラグビー場が完成する。今は「ライナーズ」と呼ばれる近鉄がこの年を創部に定める。社会人のトップチームよりその産声は早い。
この地の旧国名は河内。八尾市は「河内音頭」発祥の地だ。お祭りで、「えんやこらせー、どっこいせ」の音曲が流れる。そのにぎやかで激しい地域に格闘的な球技はマッチする。
3年前には90周年の式典を催した。その年の全国大会予選は19人。翌年から15人を割る。監督の中出智之は視線を落とす。
「僕は細かいところまできっちり教えたい性格でした。でもそれが…」
勝つことを楽しさより優先してはいなかったか、高校生の自主性を引き出せたか、49歳の指導者の胸には様々な思いが去来する。
中出は富田林(とんだばやし)から京都教育大に進んだ。現役時代はバックロー。保健・体育教員となり、2013年に赴任した。この4月で9年目。府下のラグビーを運営する大阪高体連では強化委員長をつとめている。
八尾に来た当初、中出は少人数だった部をすぐに単独に戻した。この学校を大会の会場校にして、裏方となる運営役も買って出る。敷地は大阪の府立高校では堺にある鳳(おおとり)に次ぎ2番目に広く、土ながらフルサイズのグラウンドがとれる。
自分なりに力は尽くしてきたつもりだったが、部員は0になる。
すぐに中学回りを始める。市内の中学にはラグビー部がないため、東大阪の弥刀(みと)、上小阪、小阪などを訪ねた。
OB会も協力を申し出る。昨年11月、有志が集まり、中出も加わって対策を考えた。
そのひとつは校内に張るポスター作り。OB会は年1回、30ページほどの会誌を発行している。
「北野や天王寺のOBから、立派な会誌やなあ、と言われます」
中山が話す逸品作りの力を部員確保に振り向ける。
4月のクラブ説明会で使う動画も作成する。学校の取り決めに合わせて内容は3分ほど。完成後はOB会のホームページに貼りつけ、一般にも公開する。
「全国大会に出てない負い目があるのかもしれませんが、OBは皆さん優しい。上から物を言う方はいません。金は出すけど、口は出さない、という典型的ないいOB会。監督の私はとても助かっています」
八尾の地区決勝進出は3回。花園にもっと近かったのは最後となる43回大会(1964年)。淀川工(現・淀川工科)に8−14で敗れた。半世紀以上も前である。天王寺は府下の公立で最多の19回、北野は6回の本大会出場記録を持つ。長老OBのひとりは年誌に書く。
<花園に出られたら、個人で祝儀100万円>
歩いても行ける聖地へ、勝ち続けての到達を熱望する。
主なOBは47歳の藤原匡(たすく)と一期下の萩井好次。ともに同志社に進む。WTBの藤原は八尾にとって唯一の日本代表。大学在学中に選出。テストマッチ出場はないため、キャップはない。PRだった萩井は母校と関西学院の監督を歴任。関西の強豪2大学をトップで指導をしたのは萩井が初めてになる。
八尾は大阪府第三尋常中として1895年(明治28)に作られた。日清戦争の翌年である。今年127年目。男女共学の進学校だ。40人学級が10あったが、少子化の影響で今は7。そもそも、生徒は昔より120人も減っている。
グラウンドはサッカー、硬軟の野球など6競技が使う。硬式野球は甲子園出場10回。1952年の夏の選手権で準優勝する。2年前、春の選抜の近畿地区における「21世紀枠」に選ばれてもいる。人気は高い。吹奏楽など文化系を含め部活の入部率は90パーセント超だが、同好会を含め30近い選択肢があるため、初心者はラグビーには流れにくい。
その現状を知るため、OB会も中出を支え、協力をする。実務を取り仕切る幹事長の東部(とうべ)泰昌は話す。
「新入生にはラグビーをやってよかった、と思ってもらえるようにしたいですね」
東部は58歳。兵庫・明石にある川崎重工に勤務する。八尾への行き来をいとわない。
中出は言う。
「OB会にひとりでも多くのOBを送り込むのが私の恩返しだと考えています」
大阪ならぬ、「八尾春の陣」はすぐそこに迫る。豊臣家とは違い、指導者とOB会はスクラムを組み、危急存亡を乗り越える。