12年ぶりに朝練を始め、四季が巡る。
「調子、めちゃめちゃいいですよ」
石蔵義浩の目は細くなる。成長ホルモンの増産は体と心を整える。今年37歳になる。
京都産業大のラグビー部の頃は日課だった。まだ明けやらぬ中でのトレーニングは当時、この大学の強みのひとつでもあった。
「軽いものを持ち上げています。重いものはスイッチが入らない。考えていなかったけど、気がつけば先生の形になっています」
前監督の大西健はアームカールやスクワットが素早くできる重さでやらせた。古希を超えた恩師の凄みは今も感じる。
朝練の再開理由は、自宅近くに24時間のジムができたり、W杯での日本代表の8強入りに刺激を受けたからだ。学生時代と同じ1時間近く体を動かし、出社する。
車で30分ほど行った博多の北東、多の津の問屋街に石蔵商店はある。創業は終戦の1945年(昭和20)。一族経営で計両機器と建材の2事業部制だ。石蔵は建材のトップ、事業部長として30人ほどの社員を束ねる。商材は石やタイルや断熱材などを扱い、付随する土木やとびや塗装など展開は幅広い。
「おかげさまで、コロナに負けることなく、増収増益を続けています」
昨年4月には会社「ハウストン」を立ち上げ、新事業に乗り出す。シャワー時に殺菌と洗浄の両効果があるヘッドの作製などに取り組む。複数の会社の事業継承も受けた。
石蔵はバンカーだった。三菱東京UFJ(現・三菱UFJ)に2008年に入行する。
「銀行は幅広く社会を見渡せると思いました」
就活の解禁は前年の4月1日。連日、面接が続く。受かればその夜に電話がある。
その面接が新装のグラウンド開きとぶつかった。招待チームは慶應。日本ラグビーのルーツ校と戦う晴れ舞台だった。
「明日は行けません」
正CTBの石蔵は就職より試合を取った。
「30点くらいの攻防で、5点差で負けました」
敗戦と辞退。「泣き面に蜂」と思いきや、面接は次のステージに上げられる。
あとで人事担当の重役が言った。
「君は今やらなければいけないことがわかっている。そういう人間がウチには必要だ」
三和、東海を含めメガバンク4行が合併した懐の深さを感じる。その2期生になった。
同期の総合職は500人ほど。頭取になれる可能性のある職種での採用は、母校からはただひとりだった。支店は大阪の十三(じゅうそう)に3年、浜松に2年、東京に1年いた。
「石蔵さんの動きって、地銀ですよね」
地方銀行のライバルから都市銀行の人間とは思われない。ドブ板営業をかける。
「雨の日は営業に行かないのですが、僕は行きました。ソルジャー採用だったので」
兵士という英語に体力重視の自分をあてはめる。行内の優秀者表彰は7回に達した。
その後、大阪の本部に引き抜かれる。企業合併や法人投資などを担当して2年を終える。父・義孝の体調不良が伝わり、福岡に戻る。家業を継ぎ、今年で6年目に入る。
その石蔵の心身を鍛え上げたのは、猛練習でなる京産大での4年間だった。石蔵は一浪生で、一般入学。ラグビー推薦の同期は山下裕史がいた。神戸製鋼のPRとして日本代表キャップは51を数える。
「先生がジャージーを着て出てきたら、あーあ、と絶望感がよぎったものです」
大西が蹴るボールをセービングなどで拾い、3人で50メートル以上をつなぐ。「ヘッド」と呼ばれる練習は1時間以上も続いた。
「何もしていないのにいきなりあの練習。原因不明の高熱と下痢になりました」
それでも、夏の1か月のオフは自主トレを続ける。大西はタックルを中心に評価。1年からレギュラーを獲る。銀行の評価通り、やるべきことを知り、実行できた。
3年時は第43回大学選手権(2006年度)で準決勝に進む。早稲田に12—55で破れるが、トイメンの今村雄太を抜かせなかった。
「めちゃくちゃ間合いつめて、ボールを持った瞬間、タックルに入りました」
現在はサニックスでプレーし、日本代表キャップ39を持つ中心選手を抑え込む。以後、京産大の4強入りはない。
身長は172センチと大きくなかった。それもあって銀行員になった。
競技を始めたのは小1と早い。ラグビー好きだった父に春日リトルラガーズに連れて行かれる。
高校は筑紫丘。修猷館、福岡とともに地元では「御三家」と呼ばれる名門県立校に進む。ラグビー部は1946年創部。花園には3回出ている。石蔵は出場経験こそないが、高3時には国体のオール福岡に選ばれた。
ラグビーに熱中すればするほど、机が遠くなる。結果は浪人。その間は楕円球がなくなった反動で髪も染めた。
「偏差値は1しか上がりませんでした」
試合中継はよく見た。大西の人生訓「楽志」(らくし=志を楽しむ)に感銘を受け、入部する。そして、今につながる。
昨年4月から天神にある事業構想の大学院に通い、W杯で経験した観戦旅行者によるインバウンドの恒久化などを考える。
つらい練習をともに乗り越えた大学同期の力にもなれればいい。吉瀬(きちぜ)晋太郎は浮羽究真館の教員兼監督。県内南東部にある高校の部活強化を軸に、周辺地域の活性化を目指している。
きつくなれば京産大時代を思い出す。
「あれ以上のしんどさはありません。あの時のことを思えば何でも乗り越えられる」
死ぬ思いで過ごした4年間。今はそれが生きる支えになっている。