ラグビーリパブリック

天理大学特集! 10年前からぶれない小松節夫監督の指導スタイル(2)

2021.01.17

天理市と奈良市の境にある白川グラウンドで。2011年には新たにウエートルームも設置されるなど、環境が整ってきた(撮影:前島進)

 1月11日、大学選手権で初優勝を飾った天理大。早大から奪った55得点は決勝最多得点を記録した。チームを率いたのは監督就任26年目になる小松節夫監督。2011年には初の決勝進出(準優勝)を果たしていた。その少し前に、ラグビークリニックの取材に応じている。そこには、10年経ってもぶれることのない小松監督の指導方針が見える。第2回は、小松監督が同志社大、社会人を経て天理大でコーチ、監督をするまでを振り返る。(4回連載・第2回)

◆第1回(指導者を目指すきっかけとなったフランス留学)

ラグビークリニックVol.26掲載(2011年7月6日インタビュー)
文◎村上晃一

小松節夫[天理大学監督]
Coaching My Way

――なぜ、同志社大学に進んだのですか。

「強かったから。単純な理由です。将来コーチをするなら、天理大学でというイメージを持っていたのですが、それとは別問題で、強いチームでプレーしたかったんですよね」

――同志社大学の指導者といえば、自由奔放なプレースタイルを作った岡仁詩さんですね。

「同志社は自由なラグビーと言われていましたが、僕はその前にフランスを経験していましたので、たいして自由でもなかった(笑)。ただ、型にはめない岡先生のプレースタイルには影響を受けました」

――指導者として最も影響を受けましたか。

「根本はそうです。岡先生は、『どんなに極めても、しょせん人間のやることやないか』という考え方をされていた。いろいろ教えてきて、最後のパスをキャッチミスして負けるのは、その選手を出している限り、仕方ないことです。僕はその選手を責めることはしません。やるだけのことをして、最後に相手の攻撃が素晴らしくてトライされたら、素直に相手が良かったと思える。『しゃあないやん』というのは、僕も知らず知らずのうちに使っていると思います。ただし、できるかぎりのことをするのが前提ですよ」

――92年度、天理大の監督になったときは、どのように指導したのですか。

「指導の経験がありませんから、自分で経験した練習、フォーメーション、言われたことのある言葉しか教えられなかった。でも、4年以内に指導者になってから覚えたことしか言わなくなりました」

――どうやって、学生に落とし込んだのですか。

「なぜトライが獲れたのか、なぜ獲られたのか。なぜ?と問いかけ続けました。ラグビーの仕組みを教えることから始めたということです」

――小松さんは以前、「僕はフラットパスありきです」とおっしゃっていました。ラグビーは前には投げられないけど、横のパスはOK。横に投げて走り込めば前に出られると。

「たとえば、突進して相手を巻き込んでも、次のパスを後ろに下げてしまったら、巻き込まれた選手がそこに対応するでしょう。スペースというのは前にあるんですね。突進して相手選手を巻き込んだら、すぐにフラットなパスを出して走り込む。神戸製鋼のラグビーというのは、そういうスタイルだったと思います」(続く)

PROFILE
こまつ・せつお
■1963年3 月3 日生まれ。現役時代はCTB、176㌢74㌔ 。
天理高→同志社大→日新製鋼。80年度高校日本代表。
同期には平尾誠二氏(神戸製鋼GM) 、高崎利明(U20日本代表監督)らがいた。高校卒業後、パリのラシンクラブに2年間留学。帰国後同志社大に入学し、
その後、日新製鋼に入社。93年度より天理大学コーチ、95年度より監督を務める。

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