宇部高専が復活した。
全国大会でファイナルに進む。実に32年ぶりのことだった。
主将の林岳登(がくと)は笑う。
「OBさん、コーチ、保護者への恩返しがしたいですね。決勝戦を意識せず、自分たちのラグビーをやりたいと思っています」
高専の正式名称は「工業高等専門学校」。中学卒業後の5年間、理系の学びに特化する。
その全国大会はこの2021年に51回目を迎えた。宇部は1月9日の準決勝で津山を27−19で破る。
決勝進出は1989年(平成元年)の19回大会以来。この時は昭和天皇が崩御。決勝戦は中止となり、都城と両校優勝になっている。
51回大会の決勝は奈良との対戦になる。
その強さから「御三家」と呼ばれる仙台、神戸、奈良以外のチームの顔合わせは16年ぶり。35回大会の神戸×函館以来だった。
宇部は初戦の2回戦で、第二シードの仙台に39−10と圧勝した。仙台は宮城工専時代を含め最多14の優勝回数を誇る。
宇部の強みは軸の5年生の存在だ。
PRの林は174センチ、87キロのサイズで、左右の違いを苦にしない。191センチのLO澄田太一はボール争奪を担う。188センチのCTB八嶋真司はタテに強い。
4年生SOの大中龍雲は左のロングキックでチームを前に出す。林を尊敬する。
「チームを引っ張ってくれて、先頭に立ってプレーしてくれました。すごい先輩です」
林は高専でラグビーを再開した。
山口ラグビースクールから山口ジュニアラガーズに進んだが、受験勉強もあって、中2で楕円球を置く。
「ラグビーをしたくて入学したわけじゃありません」
5学科(機械、電気、物質、制御情報、経営情報)の中で専門は電気である。
勉強とラグビーの両立を義務付けられた5年間。最終年はコロナに悩まされた。
「3月くらいから8月までチーム練習ができませんでした」
平日の練習は放課後の2時間ほど。林が中心となってメニューを決める。遅れを取り戻すため、フィットネス強化に重点を置いた。
ハードだったのは、グラウンドの縦70メートルを使ったシャトルランだ。
「笛が鳴ったら、腕立て伏せなどを入れます。3本でスタートして、最後は6本までできるようになりました」
スタミナ増強で高専大会に臨んだ。
監督の和田は林に感謝がある。
「4年の時からチームをまとめてくれました。私が週末しか練習に顔を出せないので、林の力は大きいですね」
上級生との兼ね合いで主将は2年続けた。
58歳の和田は学外監督だ。下関にある協和工業所に勤務する。神戸製鋼の協力会社である。
現役時代はFL。山口農から福岡工大に進む。4年時の1984年度には、九州学生ベスト15に選ばれる。2学年下には沖土居稔がいた。キックに秀でたWTBは、サントリーに入り、日本代表キャップ4を得る。
和田と宇部との関りは古い。
「もう15年くらいになりますかね」
故人となった父・忠人(ただと)がこのチームのコーチだった縁がある。
宇部の創部は1962年(昭和37)。学校創立と同時だ。高専大会には2年連続24回の出場記録がある。
今大会のラストゲームは準決勝の翌日、10日にあった。勝てば、32年ぶり2回目、初めての単独優勝である。
結果は0−43。
奈良に完敗する。史上4校目の3連覇を許した。最初の10分で反則やミスが出まくる。
2分、ノックオン。
4分、ノット・ロール・アウエー。
7分、ノット・リリース・ザ・ボール。
9分、キックオフボールが直接タッチを割る。0−7と先制された直後だった。
その原因を小森田敏(こもりた・さとし)が解説する。開催県代表の神戸の監督として毎年、大会の世話役もこなしている。
「プレッシャー下のスキルを育てるためには、最低でも10対10くらいのゲーム形式の練習ができないと厳しいのです」
宇部の全部員は19人。1年生は未経験の2人のみ。コロナで勧誘ができなかった。
さらに、FWの軸である澄田が前半14分、ケガで退場。反撃機も作れない。
黒と胸元の濃緑が基調のジャージーは、えんじ色に飲み込まれて行った。
試合後、和田はサバサバした表情で語った。
「選手たちはよく頑張ってくれました。OBがよろこんでくれたのもよかったです」
2019年の大みそか、32年前の宇部と都城のメンバーが下関に集まり、戦えなかった優勝戦を再現した。つながりは時を経ても残る。
林は後輩たちに全国制覇の夢を託す。
「フィジカルをもっと上げ、個人のタックルを磨いてほしい。ディフェンス能力のアップですね。選手層も厚くしないといけません」
就職はSUBARU(旧・富士重工)に内定している。群馬の太田に移り、4月から技術者の卵として、車や航空機の製造に携わる。
「ラグビーはクラブチームで続けるつもりにしています」
復活劇の先頭に立ったハタチ。その目に涙はなかった。やりきった。