乗り越えたのはいくつもの「不安」だった。東海大ラグビー部4年の山田生真は言う。
「まだ成功したとは言えないですけど、チャレンジするって大事だなと、改めて感じました」
大阪の東海大仰星高で主将を務め、東海大では1年時から1軍を経験する。働き場はFLだった。地上で相手の球に絡むジャッカルが得意だ。
チームを率いる木村季由監督は、この山田に何度もコンバートを打診してきた。
勧めたのはHOだ。FWの最前列中央に位置し、ラインアウトのボール投入やスクラムでの舵取りを担う。
山田は現在の公式記録上で「身長177センチ、体重97キロ」。卒業後にプレーしたがっていた国内トップリーグでは、小柄にあたる。
さらに各クラブとも、FLには外国人選手を補強する。攻守の軸となりうるFLの選手には、身体能力や体格、とびきりの激しさを求める。
一方でHOは比較的、日本の選手が出番を得やすい。スクラムをまとめるのには、フィジカリティと同時に繊細なコミュニケーションが求められるからだ。
多くの教え子をトップリーグへ送った指揮官は、山田の将来をおもんばかって「HOはどうだ」と言い続けてきた。
本人は「FLで、やらせてください」と応じる。すると木村監督は、時間を置いてから別な角度から問う。
「おまえは、トップリーグへ行った先でどうなりたいんだ」
3年目のシーズンが終わる頃だったか。木村監督が「先」という視点を示したことで、山田は改めて自問自答する。
トップリーグ入りの「先」で日本代表を目指すにあたり、FLで勝負するのは得策なのだろうか。
そうはいっても、学生ラストイヤーになって未知の職場へ異動するのはハイリスクではないか。
自分なりに考えを練った末、かつて東芝のFW第3列として活躍した豊田真人コーチ、さらにはFW指導の中心的存在となっている志村英明コーチに相談した。
果たして、自分は本当にHOに転じても大丈夫なのか。
「俺は全然、ありだと思うよ! 大丈夫だ」
「おまえの努力次第だけど、1年間でやっていけるレベルにまで持って行ける。きついかもしれないけど、(秋の)シーズンが始まる頃にはトップレベルでスクラムを組めるようにするよ」
両者から前向きな答えが返ってきたことで、ようやく決断できた。スクラムとラインアウトを安定させたいチームにあって、覚悟を決めた。
「東海大が強みにするところはおろそかにできない。東海大でHOをやるからにはスクラムは押されちゃいけないし、ラインアウトも高い精度を保たなきゃいけない」
春先は、神奈川県内の寮を出ざるを得なかった。帰省先の愛媛で、ラインアウトの投げ込み、冬場のスクラム練習の振り返り、下半身の強化に時間を割いた。
「スクラムで素人が伸びる一番の方法は場数を踏むことだと思っていたので、それができないのは不安でした。でも、FWコーチの方々からよく連絡をもらいました。『これだけはやっておけよ』と(個人トレーニングのメニューを)伝えてくれたり、(練習の)映像を送ってくれて『ここはこうだよ』と解説をしてくれたり。知識を養う時間にはなった」
本拠地へ戻ったのは6月だ。7月以降は少人数でのチーム練習が再開され、8月からは夏合宿で念願の組み込みが叶う。主力から控えまでさまざまな選手たちと肩やあばらを寄せ合う。腰を落とす。
主力組のHOには、1学年下でスクラムが得意な土一海人がいた。山田は「1、3番」と呼ばれる両隣のPRの選手たちに聞いて回った。
「俺と土一と、どう違う?」
「土一はどんなふうにしている?」
最善を、尽くしたかった。
「4年間、HOをしてきた人との経験の差はあると思うんです。そんななか、スクラムで意識しているのは(最初の)ヒット。ヒットに負けたら絶対に勝てない。夏合宿の時は毎日というくらいに組んだ。それでも自分が他のHOを相手に押せるのなんて5本に1本くらい。ほとんどやられていました。…ただ、成長したな、と思います」
その都度、課題を見つけ、修正してきた。10月以降、加盟する関東大学リーグ戦1部でチームの参加した全6試合に先発する。時折、ラインアウトでミスを犯すこともあってか「まだまだです」と謙遜も、かすかに手応えをつかむ。
「やっと、東海大のHOとしてできるようになってきた」
進路も決めた。愛媛から大学へ戻る直前、トップリーグ屈指の強豪クラブのトライアウトに受かっていた。
木村監督からは、「受かるか受からないかはとにかく、HOをやるならトップチームからチャレンジすべきだ」と背中を押されていた。
長らく先行きが不透明だっただけに、山田は「運と縁とタイミングがよかった」と周囲に感謝するばかりだ。
「HOに転向した時、いろんなチームがトライアウトを受けにおいでと声をかけてくれました。でも、いざ行こうと思った時に、その練習が中止になって…。自分がトップリーグに行くための活動ができない時期があって、不安でした。ただ、自粛期間中にも木村監督とは連絡を取らせてもらって、『トライアウトの話は俺がなんとかするから、おまえはチャンスが来た時にパフォーマンスが出せるように準備しろ』と。チャンスをくださったチーム、いろいろとつなげてくれた監督、短い期間で鍛えてくれたFWコーチと、いろんな人に頭が上がらないです」
話をしたのは11月22日。部内に新型コロナウイルス感染者が出たとわかる、2日前のことだった。
以後、加盟する関東大学リーグ戦の3連覇こそ達成も、12月5日の東京・秩父宮ラグビー場での最終節は辞退していた。
雌伏の時を経て、いまは大学選手権へ準備を進める。19日の準々決勝は大阪・東大阪市花園ラグビー場である。
相手は関東大学対抗戦A・4位の帝京大だ。もっとも敵は己にあり。かねて山田は展望していた。
「リーグ戦を通して、やろうとしているラグビーにちょっとずつ近づいていると思っています。でも選手権を勝ち抜くにはまだまだ詰めが甘いところがある。残り少ない時間でもっともっと粘り強い、ここぞという勝負の時に勝ち切れるチームを作っていかな…と感じます」
ポジションチェンジ。社会情勢の変化。相次ぐ活動の中断。最後の最後まで現実と、さらには「不安」と向き合い、かつ、それを払しょくするという「挑戦」を止めない。