ラグビーリパブリック

楕円の競技が、その傷ついた心を救った。ドミニシ、早すぎる別れに。

2020.12.09

父親はゴールキーパー。ユースレベルで全国大会に出場するフットボール選手だった。18歳でラグビーに転向。情熱と愛嬌で人々の心をとらえた(Getty Images)

 2020年11月24日、元フランス代表、クリストフ・ドミニシが48歳で早逝した。フランスの国会議事中にも、出席議員たちが弔意をともに示したという、ラグビーを超えた存在。「ドミ」と同い年でフランスラグビーに造詣の深いスポーツライター、木村卓二氏がその死を悼む。

クリストフ・ドミニシの軌跡年表。2007年RWC、ジョージア戦でトライを決める(Getty Images)

 ドミ……。君といると、いつだって、スポットライトを浴びて舞台に立っているようだった……。君といると、ショーは舞台裏でずっと続いていた……。まるで、君は光が消えるのを恐れていたかのようだった……。君といると、何だって極端だった……。僕たちは、良いなんてものじゃなく、最高だった。僕たちは、ふざけていたんじゃなくて、笑い過ぎて泣いていた。僕たちは、好きだったんじゃなくて、情熱に溢れていた。ありふれた話が、特別なことに変わっていった……。君は、あらゆる出会いを尊いものに変える、気さくな情熱を携えていた。今、幕は下り、君はいなくなり、僕たちは悲しみに暮れる。今、君の光が、永遠に輝いている。安らかに眠れ。さよなら、アーティストよ。
--元フランス代表イマノル・アリノルドキ

 人は忘れる生き物だ。だが、忘れてはならない物語があり、忘れることのできない想い出がある。クリストフ・ドミニシ、享年48。

 その逝去を悼み、レ・ブルーの国が黒に染まった。フランス協会は、Facebook、twitter、Instagramそれぞれのロゴを黒に変え、哀悼の意を表した。ドミの死から4日後に行われたオータムネーションズカップのイタリア戦、会場スタッドゥ・ドゥ・フランスの客席には、その肖像をあしらったビッグフラッグが掲げられ、フランス代表のジャージーの袖には“Domi”の4文字が入れられ、試合前には1分間の黙禱が捧げられた。生前所属したトゥーロンとスタッドフランセも、フランス協会同様、SNSのロゴを黒に変えた。黒い椅子で“PARIS”の5文字を客席に配するパリのジャン=ブアン競技場は、12月6日、文字を“DOMI 11”に変えて両チームを迎えた。11は生前のドミの背番号であり、この日は奇しくもフランス選手権TOP 14の第11節。選手入場の際、ピッチには肖像画が掲げられた。両チームは、今後の対戦を、クリストフ・ドミニシ・トロフィーとして行うことを検討している。

 悲嘆にくれたのは、ラグビー界だけではない。フランス国民教育・青少年・スポーツ大臣ジャン=ミシェル・ブランケールが国会の議事進行を中断、逝去の速報を伝えると、出席議員たちは起立し、生前の功績に拍手でオマージュを捧げた。“ドミ”は、自由と平等と友愛の国が誇る英雄なのだ。

2008年にはスタッド・フランセでコーチも務めた(Getty Images)

 TV局は、伝説の試合の映像と共に訃報を伝えた。1999年10月31日、トゥイッケナム、第4回ラグビーW杯準決勝、フランス対NZ戦。その16年後の大会でジャパンが南アを破る日まで、「W杯史上最大の番狂わせ」と称された試合だ。
あの日、ピッチ上で最も輝いたのは、規格外の怪物ジョナ・ロムー196cmではなく、公称172cmのドミだった。前半20分、自陣HL付近でボール受けディフェンスのギャップを一瞬ですり抜け、2人をかわしてゴールライン目前まで迫った、切り裂くようなラン。後半16分、後に代表監督となるSHファビアン・ガルティエのキックを追い、バウンドして混沌としたボールを右手でかっさらうように奪い、瞬時にNZのディフェンス2人を置き去りにした圧巻のトライ。結果、絶対的な優勝候補のNZを43対31で倒す、フランスの勝利。ボールボーイとさして変わらぬ小さな体躯のドミは、巨漢たちを小気味良いまでに翻弄し、後世に語り継がれる伝説となった。

 その翌年には、サッカーの元フランス代表、パリサンジェルマン(PSG)で活躍したローラン・フルニエの引退記念試合にも出場した。UEFAカップウィナーズカップを制覇したPSG1996年チーム対オールスターチームの一戦。PSGには、ユーリ・ジョルカエフら、1996年のメンバーほぼ全員が集結し、オールスターチームには、エリック・カントナ、ジャン=ピエール・パパン、ジョージ・ウェアら錚々たる面々が名を連ねた。ラグビーに転向する以前、リリアン・チュラムと対戦し、あるクラブのアカデミーから誘いを受けたこともあるドミは、PSGの「補強選手」として招待され、途中出場を果たした。ドミのファンであるというフルニエが自ら声を掛け、ドミが参加を快諾したのだ。

 選手として実績を築き、国中で人気を博したが、その人生の多くの期間、ドミの心は傷ついていた。2007年に出版した自伝や他のインタビューでは、鬱に悩まされていたことを告白している。始まりは14歳の時。「第2の母」のようにしてドミを育てた姉のパスカルが、交通事故により24歳で他界する。苦悶し、時に荒れた。サッカーからラグビーに転向、楕円の競技が、その傷ついた心を救ってくれたことを、自伝に記している。だが、姉の死に起因する心の傷が完全に癒えることは無く、苦悩は大人になってからも続いた。更に、1999年に伝説の選手となった翌年、当時の伴侶がドミから離れた。24日間眠れず、体重が8kg落ちたこともあるという。公の場で人を魅了する笑顔を見せていたドミだが、実のところ、同時に葛藤の日々を過ごしていた。

 フランス協会会長のベルナール・ラポルトは、ドミを最もよく知る人物の1人だ。スタッドゥ・フランセ、フランス代表、それぞれで監督としてドミを起用し、暑い信頼を寄せた。クラブの1908年以来90年ぶりとなるスタッドゥ・フランセのフランス選手権優勝、2004年6ネーションズでのグランドスラムなど、共に偉業を成し遂げている。ラポルトによると、この夏、ドミは何かの問題を抱えており、そのことについて話し合っていたという。詳細は語られていない。心の古傷は癒えていなかったのか、新たな傷に悩まされていたのか、それとも……。

 2020年11月24日、15時を過ぎた頃、ドミはあの世へと旅立った。パリ郊外、かつてフランスの代表戦のメイン会場だったパルクデプランスから6kmほどの距離に位置するサンクルー公園、その付近の廃屋の屋根に上る姿が目撃されている。約20mの高さからの墜落。この「事件」の捜査は継続しており、投身自殺か事故かは断定されていない。

 多くの追悼の辞が寄せられた。かつてのチームメイト、対戦相手、NZその他の協会、芸能人、ファン。200m背泳ぎ1998年世界水泳金メダリストにして2000年シドニー五輪銀メダリストのスポーツ担当相ロクサナ・マラシネアヌ、そして元フランス代表のイマノル・アリノルドキは、追悼に際し、ドミを“アーティスト”と呼んだ。応援したくなるような小さな身体、スペクタクルな瞬時の加速、ディフェンスラインを切り裂き、ピッチを劇場に変える爽快なまでのランニングスキル。キャップ数やトライ数で上回る選手は少なくない。だが、ドミほど試合や大会のエピソードとともに語られ、忘れることのできない選手は稀だ。そう、クリストフ・ドミニシは、ラグビー界が語り継ぐべき、伝説のアーティストなのだ。 [スポーツライター・木村卓二]

2007年RWC、ジョージア戦でトライを決めるドミニシ(Getty Images)

クリストフ・ドミニシ
Christophe Dominici
1972年5月20日-2020年11月24日
フランス代表:1998年2月7日~2007年10月19日
代表ナンバー:870
キャップ数:67
先発出場:59
途中出場:8
得点:125
トライ数:25
5ネーションズ優勝1回:1998(グランドスラム)
6ネーションズ優勝3回:2004(グランドスラム)/2006/2007
W杯出場3回(1999:準優勝、2003/2007:4位)
クラブ:ソリエス=ポン(ジュニア)→ラヴァレットゥ→トゥーロン→スタッドゥ・フランセ
フランス選手権優勝6回(スタッドゥ・フランセ):1998、2000、2003、2004、2007、2015