ラグビーリパブリック

王国で「レフリー10年」の表彰うける。森園量さんの愉快な人生。

2020.12.03

ニュージーランドでの森園量レフリー(写真中央奥)。ジョーディー・バレットが出場したクラブゲームの担当をしたこともある。

 10年間ありがとう。
 クライストチャーチ(ニュージーランド/以下、NZ)に暮らし、働きながら、カンタベリー州でレフリー活動を続けている森園量(もりぞの・りょう)さんがNZラグビー協会から10年表彰を受けた。
 同国では毎年のシーズンの終わりに、レフリー活動にかかわった人たちを労う会が開かれる。そこで節目を迎えた人や同シーズン評価の高かった人たちが表彰される。現役として笛を吹いているレフリーだけでなく、レフリーコーチやレフリー組織(Canterbury Rugby Referees)に携わっている人たちが対象だ。

 これは各州でおこなわれるもので、森園さんはカンタベリー協会が催したパーティーの中で表彰された(11月30日に開催。同州では5年ごとの表彰もおこなっている)。
 本来は昨年が節目の年だったが、1年前は森園さんが日本に帰国し、地元・関西でレフリー活動を続けていたため表彰式に参加できなかった。そのため、1年遅れの表彰となった。

 森園さんは現在、カンタベリー州のシニア1レフリー。U21(コルツプレミア)のクラブリーグ(メトロ地区)を中心に、様々なカテゴリーでレフリーを任されている。
「今回の表彰では、50年の表彰を受けた方もいらっしゃいました。私もなんとかここまでやってこられて嬉しいですね。これからも、上のレベルを目指すためにやるというより、1試合、1試合、ベストを尽くし、楽しみながら続けていきたいと思っています」
 2020年シーズンも、子どもたちの試合も含めると30試合ほど笛を吹いた。芝の上を駆ける生活はまだまだ続きそうだ。

 ラグビー王国でのレフリー生活が11年になった森園さんは、レフリー人生も11年で、ラグビーとの関わりも11年。すべてはクライストチャーチで始まった。
 大阪生まれの42歳。日本ではラグビーをしたことがない。NZでのプレーヤーとしての時間も5分だけだ。
 初めてNZに渡ったのは高校1年生の時。研修で2週間、クライストチャーチを訪れた。この国の虜になり、それ以降、学生時代に何度も留学。京産大卒業後もワーキングホリデービザで愛する国を再び訪れ、それ以降、さまざまな職に就いた。永住権も得て、輸入食品会社で働いた。

 2006年に人生が変わった。NZ人の友人から、カンタベリー大学主催の草ラグビー大会に誘われる。試合の観戦経験しかなかった森園さんは、一度だけ練習に参加し、試合を迎える。
 キックオフから約5分。パスを受けたかどうかの瞬間、猛タックルを受け、左足首を脱臼骨折する大怪我。ラグビー選手としては、それがすべて。まともに歩けるようになるまで半年かかった。

 ある日、カンタベリー協会からダイレクトメールが届く。同協会のレフリー担当部署から、「レフリーやりませんか」とのメッセージがあった。
 NZにはありがたい補償制度がある。国内で発生した事故に対し、国民だけでなく、国籍やビザを問わず、旅行者も含め誰に対してもサポートしてくれるものだ。
 森園さんは、骨折した時にその制度を利用するための書類に、受傷理由を『ラグビー』と書いた。その情報をラグビー協会がつかみ、レフリーへの勧誘が届いた。本人は、運命のメールが届いた理由をそう考える。

◆これがNZラグビー協会から森園さんに贈られたものです


 楕円球の国の追跡能力に驚きながらも、たった5分のラグビー経験だ。その誘いは放っておいた。
 しかし、森園さんは4年が経った2010年、ほったらかしだった封筒に手を伸ばす。「クライストチャーチに住んで5、6年が経つのに、地元のコミュニティーに対して何も還元していないな」と感じたからだ。
 みんなに喜んでもらえることはラグビー。そう考えた。
 担当者にコンタクトをとると、「すぐに来なさい」。研修を2時間受け、レフリー用具一式をもらう。で、次の指令は「週末にも来なさい」。5分間プレーヤーが31歳にして、突然、初めてホイッスルを吹いた。

 担当したU13の試合は、当然荒れに荒れた。選手のお父さん、お母さんたちから、めちゃくちゃ文句を言われたと笑う。ラグビー協会の人たちも、『もうアイツは来ないかもね』と話したそうだ。そんな話をのちに聞いた。
 しかし本人は、「まあ慣れるだろう」と強かった。

 毎週の割り当てにせっせと足を運び続け、ローブックをよく読み、レフリーたちのミーティング、勉強会に顔を出しているうちに、少しずつ進化する。試合中のヤジも気にならなくなっていった。
 初年度のU13レベル担当から、毎年、U14-15、U16-18と、年を追うごとにプレーヤーの年齢が高くなっていく。やがてカンタベリー協会のレフリーアカデミー入り。若いメンバーの中で、自分だけ30歳半ばだった。

 思いがけないスタートだった新たな人生も11年が経ち、充実している。
 昨年の日本への帰国時には関西大学Aリーグの同志社大×関西学院大をはじめ、トップウエストの試合など、6試合でレフリーを担当。今年はコロナ禍で同様の機会は逃すも、NZと日本の両国で笛を吹く生活を続けている。
 それぞれの国の違いも感じられて面白い。「日本では試合の数日前にチームから連絡が入り、ジャージーの色や、試合当日のタイムスケジュールの確認などおこなわれます。NZではそんなことはなく、試合の1時間ぐらい前にグラウンドに集まり、話し、試合が始まります。日本のしっかりしたとこ、NZでも採り入れてみてもいいかもしれませんね」と話す。

 王国ならでは、の取り組みも面白い。
 NZでは安全対策のため、マウスガードの着用を義務付けたがクラブレベルではなかなか徹底できない。そのため、試合中に未着用が発覚した選手にはペナルティが与えられ、2人目が見つかるとイエローカードを出す試みもあった。
 それでも抑止力にならず、1人目発覚でイエローカード、2人目でレッドとするように変わっていったこともあったという。
 ブルーカードはドクターがいない試合で、レフリーが脳震とうの可能性があると判断したら出すものだ。その選手には自動的に21日間(3週間)の出場停止措置がとられる。

 海をまたいでレフリーとしての経験を積み重ねる森園さんは、「1年でも、1日でも長く、いまの生活を続けていきたい」と話し、NZで知ったこと、学んだことを日本に伝えていきたいし、日本のレフリーがNZで経験を積むことのサポートも続けていけたらと話す。
 実際、現地での日本人レフリー関係者の仲間も数人に増えた。自分のような道を歩んできた者も仲間に入れてくれたNZラグビーのあたたかさに感謝しながら、楽しい日々をまだまだ謳歌する。

日本に帰国時の森園さん。関西のラクビーシーンで活躍
これが10年を記念してNZラグビー協会から贈られたもの
こちらも帰国時、日本国内でのレフリー担当試合。フレンドリーな空気を作る