ラストワンプレー。慶大の相部開哉主将は、1年の山田響にペナルティゴールを託した。
「普段の立ち振る舞いを見ても、彼には逆境を乗り越える力があると思ったので」
任された本人はこうだ。
「練習中でも上級生に向かって結構、(伝えるべきことを)言います。その面から、そう捉えられたのかなと思います。2点差やったんで、ペナルティゴールということに驚きはなく、当然の選択かなと思いました」
11月1日、東京・秩父宮ラグビー場。関東大学対抗戦A・第4節でライバルの明大を10-12と2点差で追っており、ゴールを決めれば逆転でのシーズン3勝目が叶い、外れればその場で2敗目を喫する。
この日、FBとして先発の山田は試合序盤、ペナルティキック獲得後のタッチキックをデッドボールラインの向こうへ飛ばした。さらに3-7とリードされて迎えた後半6分には、敵陣中央近辺の位置からのペナルティゴールを外した。
キックで失敗を重ねていたルーキーが、大一番の勝負をキックで決めることとなったのである。
LOでプレーする主将が「彼をキッカーにしているということは、彼がチームで一番、キックがうまいということ。彼が失敗したということは、慶大が失敗したということ。落ち込む必要はない」と話していたとはいえ、当事者にかかる心理的な圧力は皆無ではなさそうに映る。
もっとも、当事者はこの調子だった。
「あまりプレッシャーというものは感じずに。その試合ではキックミスがあったんですけど、そのことは考えず、決めるというか、キックをするということにフォーカスした。しっかり自分のキックを蹴ろう、とは、思いました」
むしろ、「1本外していたのがよかったというのがあるかもしれないです」。後半6分の1本が決まらなかったことで、技術的な振り返りがしやすかったからのようだ。
もともと山田は「結構、引っ張るキックの蹴り方で」。ボールの左側から打点へ巻き込むよう、左の蹴り足を振り抜く。打点はボールの左側面あたりのようだ。
目指す形が明確であれば、キックが外れても理想と現実のずれをすぐに見つけられるのだろう。失敗したペナルティゴールは、本人いわく「いい感触でしたけど、外した」。自分の蹴り方なら物理的に飛ばないはずの左側へ球がそれたことで、改善点を明確にできた。
「足の当たる位置はよかったんですけど、振り足がよくなかった。左にそれたということは、左足を振り切れていなかったということなので。次は引っ張って蹴る、というのを意識しました。改善する部分は自分のなかでわかっていたので、その点だけを修正すれば普段通りのキックができて、入るというのがわかっていた」
静寂に包まれる芝の上。穏やかに呼吸を整える黒と黄色の背番号15は、敵陣22メートル線付近右中間からの1本を見事に決める。
13-12。ノーサイド。歓喜の輪に包まれた。
「キック自体(について)は蹴るというのが一番、重要な点で。入る、入らないは結果論なので、自分のキックをいかに蹴るかを日ごろから思っていた。入ったら勝ちで入らなかったら負けという状況でも、自分のキックをするだけ」
話をしたのは11月5日。神奈川・日吉の本拠地グラウンドでの練習後のことだ。オンライン取材で伝わる表情や話し声の抑揚はほぼ一定。飾りのない言い回しで皮膚感覚と実感を伝えているような。
有事に動じないその資質は、いったいいつ、どのように身に付けたのか。
4歳から明石ジュニアラグビークラブで競技を始めた本人は、少し考えてから応じる。
「いつ頃から、というのは明確にはわからないですけど、自分、大舞台が好きというか、テンションが上がるタイプなので」
兵庫・報徳学園高時代には、ユースオリンピックの男子7人制ラグビー日本代表となっている。将来は本家のオリンピックで活躍したいとも願うが、いまは「120年以上続く歴史のなかで15番を背負う。そこに誇りを持って、慶應義塾大学として一戦一戦、戦うというところにフォーカスしている」。身長174センチ、体重74キロの背番号15は、1899年創部の古豪における態度を殊勝に述べる。
「一緒に練習してきた先輩が(試合の)メンバーに入れないことが多々ある。こういう(力のある)選手でもジャージィが着られない。そこで、着させてもらっているというありがたさが身に染みる、と思います」
では、100名以上もの部員を代表する条件には何が挙げられるのだろうか。そう水を向けられると、劇的なゴールまでの過程にぴったりの言葉を選ぶのだった。
「やっぱり、日頃から練習のワンプレー、ワンプレーに向き合っていかないといけない。いいプレーにも、悪いプレーにも、あそこはどうだったか、こうした方がよかったんじゃないか、こういう方法もあるんじゃないのか、というのを、自分のなかでも、他の選手とのコミュニケーションのなかでも向き合っていくのが大事だと思います」
8日に東京・上柚木公園陸上競技場での青山学院大戦、23日には秩父宮で「早慶戦」と呼ばれる早大戦に挑む。「先輩方からは『思い切りやれ』『自由に』と言われる。そういう声掛けが力のもとになっている」と、晩秋の大舞台へも自然体で挑む。