表情が柔らかくなった。
グラウンドで笑うようになったのですね?
「当たり前ですよ。そうしないとね」
向井昭吾は来年10月、還暦を迎える。
今も挑み続けている。
コカ・コーラ レッドスパークスの再建を託された。チームはトップリーグから落ちる。2018年度は最下位16位だった。
昨年3月、部長兼監督としての復帰が発表される。全権委任。赤いジャージーの現場へは、5シーズンぶりに帰る。
「大目標はトップリーグに確実に上げ、そこで戦っていける土台を作るということです」
新リーグの行方は不透明。ただ、最上の場所にいることは絶対である。
元々、「向井待望論」は根強くあった。このチームのトップリーグ最高は8位。向井が監督として2009年度に残した。
西村将充、日隈(ひのくま)慎太郎ら教えを受けた元スタッフたちは、みなその力を疑わない。会社は、日本人と外国人の3人の指導者を経て、その主導権を向井に戻した。
「毎日、楽しいですよ。選手たちが少しでもうまくなってくれるのを見ていると」
2年目もメニューは基本的には自分で考える。コーチに任しっぱなしにしない。2面の天然芝グラウンドがある福岡・香椎浜では、実戦的な練習が繰り広げられている。
15人同士でコンタクトを入れ、インゴールの往復100メートルをつなぐ。最初の幅は5メートル。途中から15メートルに広げる。
「スペース感覚を磨いてほしいし、幅が広がったところでは視野の広さをつけてほしい」
選手たちは肩で息をしながら続ける。
練習終わりには選手たちに声をかえる。
「今日はよかったよ」
そう言われた猿楽直希はニヤッとする。
「今日も、じゃないんですか?」
地元の東福岡から明大、ステップを武器に進んだCTBは30歳になった。
「子供と一緒で、選手たちの動きをよく見てあげる。変化に気づいてあげる。そうしないとラグビーを続けてもらえません」
監督就任後、向井は部員たちと掃除をするようになった。グラウンドの前の二車線の道路やクラブハウスなどである。
「汚いやキレイをみんなが同じように思うようになれば、心はひとつになる。そうすればちょっとだけ出ているオフサイドなんかが、なくなるかもしれません。1本のPGで決着がつくのがラグビーですから」
向井は新田から東海大に進み、東芝府中(現・東芝)に入った。キックなど技に優れたFBとして日本代表キャップ13を得る。
1994年、東芝府中の監督に就任。猛練習で会得したペナルティーからの速攻、「PからGO」はラグビー界の社会現象になった。
2000年に退任するまでの6シーズンで日本選手権3連覇、全国社会人大会(トップリーグの前身)では連覇を飾る。
退任と同時に日本代表監督になる。
2003年、第5回W杯の指揮を執る。オーストラリアでは4戦全敗。当時は今のように全権監督ではない。メンバー編成など、上からの圧力は常にあった。手かせ足かせの中でも向井は投げ出さなかった。最後は土色の顔。笑みはない。
2004年、当時のコカ・コーラウエストジャパンの監督に就いた。2シーズンでチームを昇格させ、2006年度からトップリーグで戦った。現場での指揮は計8シーズン。その間、最高の8位。1966年(昭和41)創部のチームにとって、「中興の祖」である。
その後、GM兼総監督になる。2015年の春、退任するも、ラグビーの縁は切れなかった。
学校やスクールなどを訪れ、コーチをする。向井を知らない子供たちの中では、笑顔で接し、レベルを初歩に下げた。それはコーチングに幅をつける。新たな境地に入った。
「去年は5年ぶりにメンバーを見ました。力が見えませんでした」
トップチャレンジは5勝1敗1分の3位。優勝する近鉄に26−43と負けたのみ。2位の豊田自動織機は21−12と下したが、勝ち点24で並び、総得失点差で沈んだ。
2年目。チームへの理解は深まる。
7人制日本代表のFB吉澤太一は7年目を迎えた。
「今年から15人制に専念してくれます。楽しみです」
ステップの切れに衰えはない。
新人SOで立正大から来た今泉仁(じん)にも期待がかかる。
「フィジカルが強いです」
外国人として、昨年から在籍のブロディ・マカスケルの名前も挙がる。
「素直。活躍してくれればいいですね」
190センチ、110キロ。オーストラリア出身のNO8をそう評する。
向井にとって2回目のトップチャレンジは1月17日に開幕する。今回は9チームによる総当たりリーグ戦だ。
初戦は九州電力。「福岡ダービー」のキックオフは14時。会場はベスト電器スタジアム(旧レベルファイブ)だ。
リーグ戦で4位までに入れば、トップリーグチームとのセカンドステージを戦う。
「人間的成長なしに、ラグビーの成長はない」
指導者として円熟する向井。その信念が、花開く年にしたい。