家業を引き継いで33年。ゾロ目になった。来年12月には還暦を迎える。
ラグビーマンだった村田直是(なおゆき)は、万古焼を守っている。「ばんこやき」は三重・四日市の伝統的な焼き物である。
「これで米を炊いたら、美味いと思うよ。冷めても保湿ができるから、硬くならない」
薄いグレーで白の花模様がちりばめられた土鍋を見れば、「ああ、それか」と頷く。焦茶や黒の色合いのものもある。
自身が代表をつとめる村田製陶は父・裕司(ひろし)が興した。1960年の中ごろである。村田は二代目になる。
当時、200軒以上あった窯元は、今では50を切っている。村田も基本、ひとりでやっている。
「もうからん。昔は輸出して、アメリカやヨーロッパでみやげものとして売られていたけど、それもなくなってきた。インフラ自体も厳しい。焼き物に不可欠の土が、安定供給できんようになってきている」
それでも、父の事業を投げ出さない。80坪ほどの地所に立つ2階建ての工房に日々通う。銀色の窯は2つある。
「11時間ほどで焼き上がるよ。1回に2合炊きの土鍋なら200個ほど焼ける」
住所は万古町。近鉄四日市から名古屋寄りに北へ2駅行った阿倉川が最寄りだ。町の南には土を育てた海蔵川が流れる。
万古焼は陶土と磁土を混ぜて作った「半磁器」に分類される。
伊賀焼(三重)、瀬戸焼(愛知)などと並ぶ。江戸時代、焼きものに合う土が見つかり、富める好事家らが今に至る地盤を築いた。
万古焼の土とラグビーの砂。村田はこの地球を覆うものに縁がある。当時、芝生のグラウンドはまれだった。
競技を始めたのは高校から。地元の四日市西である。ただ、入部は2年の春と遅い。
最初はハンドボール部だった。
「ある日、雨が降ったんよ。コートが使えないから、校庭を10周走ることになった。ところが2周目で後ろを見たら、誰もおらん。こんな軟弱なクラブにいたらアカンと思った」
同じクラスにラグビー部の伊藤君がいた。ジャージーの背番号は1だった。
「エース番号。かっこいいなあ、と思った」
村田は中学時代、野球部だった。ただ、伊藤君は一介の左PR。大黒柱ではない。
「ラグビーは新鮮やった。ボールを受けたら、ゴールまで走る。ただ、それだけ。しばりは何もない」
身長は185くらいあった。LOになる。
当時の四日市西は3年の春で部活を引退する。受験のためである。
「自分は1年ほどしかやってない。ようやく楽しくなってきた頃やった」
大学での継続を考える。
「せやけど、全国大会に行ってないし、国体のオール三重でもない。勉強もしてない」
推薦で行ける学校を探した。浮かび上がったのが大阪体育大である。
監督は坂田好弘。WTBとしての日本代表キャップは16。近鉄を辞め、教員としてこの大学に来る。村田が高3だった1979年、坂田は赴任3年目だった。
「面接では先生から、筆記テストがよかった、と言われた」
新設だったが、四日市西の偏差値は低くはなかった。高得点を挙げる。
村田は1年の夏にはBチームに入った。
2年時、チームは初めてとなる大学選手権に出場する。8校制だった18回大会は、初戦で優勝する明治に10−28で敗れる。
翌19回大会も初戦で明治に22−41。この大会から同志社が3連覇する。その黄金期と重なり、白黒ジャージーに光は当たらなかったが、歴代4位となる関西リーグ優勝5回の下地を作る。
大学卒業後は故郷に戻る。誘われるまま、西日野養護学校(現・特別支援学校 西日野にじ学園)の講師となる。
「なじんだな。楽しい時間やった。ラグビーを教える、という興味はなくなった」
スキンヘッドだが、目じりが下がる村田には子どもを惹きつける魅力がある。
知らない小3男児が下校時に工房を訪れ、嬉々として粘土細工を作ったりする。
誘拐を疑われるオチはつくこともあるが…。
教員を4年やった後、父の工房を継ぐ。
あとを取ると思っていた弟が、父の元を離れ、別の方向へ進んだからだ。
「これがやりたい、というもんはないんよ。来るもん、来るもんを受け入れるのが自分の人生やと思っている」
村田は達観している。
「人生、なるようにしかならん。そう思えない人が多いんよ」
最初から努力をしない、という意味ではない。できるだけのことをして、ゆだねる。焼きものの出来、不出来は、最終的には土と火(窯)が決める。その日常が村田を創る。
ラグビーは土と火とがっぷり四つに組むのに役立った。
「こつこつやらんといかん。特に1年生。ほとんど、しんどいことばかり。練習や雑用やな。でも、それで免疫ができた。ああ、体力があるのもラグビーのお蔭か」
先行きは不透明。その状況でも、村田は家業に地道に向き合っていく。