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【ラグリパWest】出戻りコーチ、奮戦す。下島廉人[岡山・創志学園]

2020.10.07

岡山・創志学園に戻り、新コーチになった下島廉人さん。この全国高校大会岡山予選で初優勝を勝ち取りたい


 創志学園は岡山の最右翼だ。今年の花園出場に関してである。
 9月27日、玉島に38−15。前年代表校を下し、県予選の第1シードを得た。

 監督の武田裕之と勝利へ導いたのは、コーチの下島廉人(しもじま・れんと)だ。
「生徒が頑張ってくれました。勝てて、ちょっと安心しました」
 32歳は、丸い目を輝かせた。

 下島は「出戻り」である。系列のIPU・環太平洋大を卒業後、保健・体育教員として赴任した。しかし、4年で職を辞した。
 コーチ資格の取得が主な理由である。
 最上のS級に次ぐ、A級(強化)に目標を定めていた。日本代表やトップリーグを除いたチームを指導できる。
 現役バックローとして、福井への帰郷を求められていたこともあった。2018年には国体開催が決まっていた。

「卒業して、すぐに教員になれたのは、幸せなことでした。でも、その分、勉強不足の面もありました。企業につとめてから、また教員になっても遅くないとも思いました」

 大飯、高浜といった原子力発電所の警備をする会社に籍を置き、ラグビーに没頭する。
 岡山では5人待ちだったA級コーチの講習会にはすぐに参加できた。
「三宅さんや藤田、相先生らと一緒でした」
 三宅敬(たかし)は元パナソニックのWTB。日本代表キャップ4を持つ。藤田雄一郎は東福岡、相亮太は流経大柏の監督。選手としても、指導者としても、雲の上の人たちと学びをともにでき、資格を得る。

 国体では成年男子で優勝する。
 所属チームのアトムズでも出会いがあった。小野澤宏時と菊谷崇である。日本代表キャップは81と68。小野澤はWTBとして2003年からW杯3大会連続出場を決め、NO8の菊谷は2011年のW杯で主将をつとめた。

「ザワさんもキクさんも人を見て、アドバイスを使い分けていました。こう話しても、別の人には違う。特にザワさんを見ていて、話すことの大切さを学びました」

 創志学園の主将・松本圭祐は言う。
「コーチが来てから、メンバーのコミュニケーションがよりよくなりました。熱くならず、冷静に判断ができます。ラグビーも細かい部分まで教えてもらえますし、丁寧で、優しくて、あったかいです」
 3年生SOは大きな信頼を寄せる。

 下島は教え子に敬語で接する。
「靴のかかとを踏まないで下さい」
 理由がある。
「しろ、とか、やれ、の押し付けが好きではありません」
 高校生を大人として扱っている。

 この競技を始めたのは若狭東から。
「入学して、同じクラスだった子が7人も入部しました。それにつられました」
 高3時には花園に出場する。86回大会(2006年度)は初戦敗退。日本航空石川に5−20。しかし、東西対抗の西軍に選ばれる。東軍にはリーチ マイケルがいた。東芝で日本代表キャップを68に積み上げるバックローと戦う。175センチ、90キロほどの体には全国レベルの突破力が宿っていた。

 IPUでは、ラグビー部の1期生になる。学監だった山口良治にスカウトされた。京都工学院(旧・伏見工)の全国V4の礎を築いた山口は、若狭東の前校名、若狭農林のOBだった。
「迫力がすごかったです」
 大学では4年間、主将を続けた。

 教員2年目の2012年、武田が保健・体育教員、そして監督として赴任する。
 前任の天理高では、クボタの立川理道の成長にも手を貸す。SOやCTBをこなす30歳は日本代表キャップを重ね55とする。
 花園準優勝の実績もある。84回大会(2004年度)は啓光学園(現・常翔啓光)に14−31。同校の4連覇目に当たった不運はあった。

「私が来た時には、担任や生活指導の仕事もありました。その間、チームを見てくれたのは下島でした。彼がいなければ、チームが存続したかどうかわかりません」

 前任コーチで数学教員だった辻本達也は今年3月、家庭の事情で退職した。その時、武田の頭に浮かんだのは下島だった。コロナの影響もあり、合流は6月になった。

 福井での仕事は国体枠での採用であり、終了後の待遇はよくなかった。将来への不安を感じていた時、武田から連絡がある。
「元々、教員というより、ラグビーを教えたかったんです」
 正教員から職員に変わった再雇用も気にならない。

 100回目となる記念の全国大会県予選の初戦は11月1日に決まった。
 対戦相手は高松農と合同の勝者。キックオフは午前11時。場所は美作ラグビー・サッカー場である。
 3回勝てば、花園出場を勝ち取る。そうなれば、2010年の新規開校と同時に創部したチームにとって、11年目で初の快挙となる。

 下島には高い動機づけがある。
「自分から辞めたのに、それでも戻って来い、と武田先生は電話をくださいました。恩返しをしないといけません」
 自らのラグビー知識と人間性で赤ジャージーをまとう31人の選手をまとめてゆく。
 その結果の積み重ねが、これからの下島自身の人生の扉も開けていくことになる。


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