コーチをしていると試合中に相手のFWの顔を見る習慣がつく。膝に手を置く。発汗が激しい。そのあたりを察知したら、自分のチームに指示を発する。「どんどんボールを動かせ」。いまの選手やコーチはそうした仕草を「ボディーランゲージ」と呼ぶ。
10月4日。ラグビーの公式戦が始まった。関東大学対抗戦の筑波大学が慶應義塾大学を30-19で破った。J SPORTSの解説をしながら、前半、コーチ時代のくせで、汗の量や表情から「筑波のFW、足が止まるのでは」と思った。
筑波は内側の防御の意識が高く、迷わず前へ出るタックルも機能している。ただし、ひとつの接点に力をふりしぼる分、疲労は進むはずだ。
だから、よく鍛えられた慶應が、心を開け放って、どんどん攻めれば、オフサイドやブレイクダウンにおける反則を奪えるのでは。そう読んだ。
ただ慶應は、前半、スクラムで優勢に映った。ラインアウトも奪取にはいたらぬもクリーンなキャッチを簡単に許さなかった。
このあたりは心理のアヤで、セットプレーの計算が立つので、試合運びが保守に傾くことはありうる。陣地を意識した筑波がキックを用いる。慶應も確実に蹴り返した。攻防が途切れず動くような展開にはならなかった。
試合が進むと、解説者として筑波の勇敢なFWにあやまりたくなった。終盤、複数の選手の足は確かにつった。でも、スコアの優位をすでに保ち、それが白黒を決することはなかった。
筑波は勝つならこれしかないという流れをつくり、そこに乗れた。フェイズを重ねるとターンオーバーされそうで、スタミナも消費する。敵陣を意識しつつ、いったん手にしたボールを手間はかけずにトライへと結ぶ。
ひとりの「特別な人」が出現した。
新人の13番、谷山隼大。「184㎝・92㎏」の堂々たる骨格。福岡県立福岡高校の評判の逸材だった。FW3列で高校日本代表に選ばれたように複数ポジションを高いレベルでこなす。
開始直前。福岡高校のOBよりショートメールが届いた。
「高校1年、まだ身長178㎝の谷山がジャンプ、ゴールポストのバーに両手でぶらさがったのを見ました。OB会長いわく、福高の歴史で、あれができたのは、ほかには渡辺貫一郎だけ」
1973年1月6日、ここ秩父宮、大学選手権決勝の終了2分前の劇的逆転トライ、往時の明治大学の快足WTB、渡辺貫一郎!
この日、谷山の能力は際立っていた。自然現象のように外へ引いてのオフロード(ひさしぶりにソニー・ビルという響きが脳によみがえった)。簡単でないハイパントを難なくキャッチ。いずれもトライへつなげた。
多フェイズを要せずスコアする。コロナ禍にあって鍛錬の機会が限られた今季、各チーム共通の主題ではないだろうか。筑波は、相手にしたら分析や対策のしづらい「開幕戦の1年生」の力で実行できた。
もうひとり。背番号15の植村陽彦もいわゆる「Xファクター(周知されぬ才能)」として登場した。しなやかで加速の変化の効いたランで2度もインゴールを陥れる。茗溪学園出身の2年生。昨季も公式戦に出場しているが、この慶應戦についてはまさに「突如出現」だった。
これも本稿筆者が懺悔するほかないのだが、後半、放送席に情報が届くまで、筑波のFBはエースの松永貫汰と認識していた。
当日の時差のある2種類の公式シートのいずれにもそうあった。中継スタッフの現場での確認でも「メンバー変更はなし」だ。放送開始。画面に最初の表情がちらっと映った。実は「別人では」と感じた。体格がいくらか細身だ。
しかし手元の公式シートは「松永貫汰」。念のためにラグビーマガジンの最新の選手名鑑のページを繰った。植村陽彦は笑っていない。髪型もグラウンドの上とは違う。松永貫汰は満面の笑顔。比べづらい。放送モニター画面の中、筑波の15番の目元は「記憶の中の松永」と重なった。そう考えようと心理が働いた。
しまった。やはりマイクのスイッチをいったん切って、近くのディレクターに小声で「念のために15番、直前の変更がないかチェックを」と伝えるべきだった。
数日前。沖縄・名護のデイゴラグビースクールの練習を遠巻きに見学、終わったあと、ひとりの中学生に「勝負の場ではハッと思ったことをすぐ言葉にして仲間に伝えろ」と助言した。「考えていることは正解なのに声がないのでパスがこない。もったいない」と。なのに自分ができなかった。コーチ失格だ。
植村の活躍は、慶應陣営も警戒していた切り札の松永と遜色がなかった(マン・オブ・ザ・マッチに選ばれた)。そこでまた疑念がかすれた。両選手と視聴者にあやまるほかはない。
慶應はゲーム運びの焦点がぼやけた。ゴール前の力攻め。外のラン。セットプレーやモール。どこからも崩せそうで、そうなりかけて、ハンドリングのエラーや反則で逸機、想定外かもしれぬ筑波のランナー(谷山)に穴をあけられ、フィニッシャー(植村)にトライラインをゆずった。
いろいろできそうだから、簡潔に集中できない。開幕戦にはありうる。進歩の途上の「産みの苦しみ」とも解釈できる。明治、早稲田、帝京との大試合に「ここで勝負」と割り切れば、黒星発進にも、まだまだ、こわい存在だ。3年の7番、山本凱のターンオーバーには凄みがあった。
早稲田大学も青山学院大学に苦しんだ。いろいろと上回れそうで、かえって決定的な優位に立てない。身上のはずの「早さと速さ」がぼんやりしているので、個の能力やまじめな努力の成果が束にならない。どこか慶應と似た試合運びだった。情報のない筑波が相手なら危なかった。一筋の光明、14番の2年生、槇瑛人(國學院久我山)は逸材と見た。
青山学院の体を張った攻守は観客の心をとらえた。開始15分過ぎ、身長170㎝の3年生、7番の中谷玲於(京都成章)の痛覚なしのタックルがハイライト。ヒットにつぐヒットで務めを果たす。敗れて、なお、マン・オブ・ザ・マッチでもよかった。
現況では、ひとりずつの選手を試合後に取材できない。必然、帰りは早く、千駄ヶ谷駅まで観戦を終えたファンの列とともに歩いた。ひいきチームのない本物の愛好家である知人にたまたま会った。いきなり、こう言われた。
「青学、よかった。7番のタックル」
しばらくすると初見の男性に「早稲田はどうですか」と声をかけられた。
「慶應もそうですが、ことに今シーズンは、ひとつの試合だけではわかりません。それより筑波の13番と青学の7番が…」
赤黒の連覇の見通しを聞かれたのに申し訳ありません。
もうひとり。筑波の18番、新人の右プロップ、田中希門(中部大春日丘)も非凡ではあるまいか。182㎝、102㎏。後半33分に途中出場、進む時計で同49分のスクラム、板の背中でぐいぐい前へ出た。もちろん、ひとりで組むものではない。それにしたって強かった。