アンサングヒーロー(UNSUNG HERO)とは縁の下の力持ちのことである。
外からでは分からぬ貢献者。でもチームに欠かせぬ人。
2015年のワールドカップで南アフリカ代表を破るなど躍進を見せた日本代表にも、そんな存在がいた。
湯原祐希さん(当時HO)と廣瀬俊朗さん(当時WTB/SO)だ。全4試合、一度もリザーブメンバーにすら入らなかった。それでも真摯に日々を過ごし、仲間にパワーを与え続けた。
その湯原さん(東芝プレイブルーパスFWコーチ)が9月29日に急逝した。2015年のワールドカップ直後におこなったインタビューに、故人の人柄が滲み出ていたので紹介したい。
インタビューは大会からの帰国後、約2週間が経っておこなわれた。その3日前には、府中駅前で府中市をホームタウンとする東芝、サントリー両チームの選手たちが参加しての帰国報告会が市民の前で催された。
レッドカーペットが敷かれ、舞台が設置された会場に詰めかけたファンは約4000人。熱気にあふれ、ファンにもみくちゃにされる選手たちの表情は穏やかで、誇らしそうでもあった。
「驚きましたし、嬉しかった」
湯原さんは報告会のことを振り返り、素直な言葉で思いを伝えた。
試合に出た、出なかったより、日本ラグビーの歴史を変えたチームの一員でいられたことの誇りと喜びが、大会の記憶だと話した。そして「このジャパンにいたら、へこんでる時間なんてなかった」と笑った。
大会実施年の春から160日近い強化合宿を重ね、準備を進めた日本代表。早朝トレーニングから始まり、日に3度の練習は当たり前。スペシャルメニューを追加された選手は4部練ということもあった。
ワールドカップ期間中こそ猛練習はおこなわれなかったが、試合メンバーは調整が優先される中、リザーブにも入らなかった湯原さんと廣瀬さんは他の誰よりも練習を重ねた。
「試合メンバーが決まるまでは、出たい、出たい、と思いながら練習に取り組んで、メンバー発表のときに名前を呼ばれなければコーチの指示に従って仮想相手チームとなり、試合の準備に加わる。その間も、アクシデントに備えて、いつでも出られるように準備をしておく」
そんな行動と思考を4試合分重ねた。
当時、東芝に入って10年目のシーズンを迎えていた湯原さんは、ワールドカップメンバーに入った3人のHOの中でもっとも年長で、2番を背負う経験がいちばん長い選手だった。
その分、スクラムに関しての知識や経験、そして自信も他のふたりより深かった。そんな湯原を、堀江翔太も木津武士も頼りにした。
結束は固かった。3人あわせて『チームHO』。試合に最初から出る者、途中からピッチに立つ者、出られない者がそれぞれの責任を果たす。そこに言葉はいらなかった。
例えば大会前におこなわれたウォームアップゲーム(テストマッチ)のジョージア戦。スタンドで試合を見ている湯原さんに、ピッチに立つ木津から声がかかった。
「下に降りてきてください」
駆けつけた湯原さんに木津は「スクラムを見てください」と言った。
「(言葉は)それだけでした。うまく組めているかどうかチェックしてくれ、と」
そう話す湯原さんは笑顔だった。チームは、いつも全員で戦っていた。
当時のジャパンのスクラムが、マルク・ダルマゾコーチの指導を受けて改善されたのは事実だ。ただ、指導をそのまま受け入れて、魔法をかけられたように強くなったわけではない。
スペシャルなコーチの理論を聞き、正しく理解できるまでディスカッション。そうやって作り上げたスクラムだから武器になった。
強いスクラムを作る途中で、湯原さんもスペシャリストとしてよく意見を出した。それは、ジャパンのスクラムをFW全体に浸透させるのに欠かせぬものだった。
「自分たちで自分たちのスクラムを作っていったので、みんなが同じイメージを描けた。だから(堀江)翔太と話すときも、すぐに言いたいことが伝わるし、分かり合えた」
湯原さんは、2015年の日本代表を支えていたのは練習の厳しさであり、日常から漂っている緊張感だったと話した。
その年の初夏に起こった、エディー・ジョーンズ ヘッドコーチの厳しさ、激しさが伝わるエピソードも口にした。
ある日の練習、湯原さんはラインアウトに取り組んでいた。「チャンスは一度しかないぞ」がジョーンズHCの口癖であり、信念だ。そのことを肝に銘じているつもりだったけれど、自身のスローイングしたボールが理想的な軌道より低くなってしまった。
そのときだった。味方ジャンパーがボールを捕ったにもかかわらず、ラインアウトの練習は打ち切りとなる。メニューは次に移った。
すべてのメニューが終了した後、湯原は同HCに呼び出された。席に着くとまくし立てられた。
あの球はなんだ。クオリティーが低い。トップリーグレベルで満足か。家に帰れ、そうなれば家族もハッピーだろう。
チームマネージャーを呼び(帰京する)チケットの用意を命じた。HCはそれを終えると席を立ち、去っていった。
「あー。これで俺も終わりか、と思いました」
湯原さんは天を仰いだ。
どれほどの時間が経ったか、しばらくしてスマホにメールが入った。やるか、やらないか。自分で決めろ。エディーからのメッセージには、そう書いてあった。そして、「やるなら来い」と。
湯原さんはエディーのもとへ急いだ。次の練習からまたやらせてくれ。そう伝えた。指揮官が頷く。全練習、必死にやった。そうしたら、その週末の試合メンバーに入った。
なあなあで終わることはない。練習から勝負だ。そんな日々をくり返したからチームは強くなったし、それを乗り越えたから自信を得て、絆は深まった。
「(自分には)そういうことを次の世代に伝えていく責任があると思っています。これからジャパンになる人たちにも、東芝のみんなにも。そうやって、これが日本ラグビー全体のスタンダードになればいい」
享年36。東芝のFWコーチとして、学んできたことを後進に伝えている途中だった。
その遺志は、ブレイブルーパスの全員がきっと継いでくれる。