ラグビーリパブリック

【コラム】聖地の匂い

2020.10.01

歴代の選手たちが慈しんできた憧れの芝。青山の女子学習院の跡地に「東京ラグビー場」として完成したのは1947(昭和22)年(写真は2018年度の関東大学リーグ戦/撮影:松本かおり)

「彼は目を閉じて 枯れた芝生の匂い 深く吸った」。松任谷由実さんの名曲『ノーサイド』に歌われたようなシーンも、これからは少し減りそうだ。

 ラグビーの東の聖地、秩父宮ラグビー場。神宮外苑地区の再開発に伴って建て替えが予定されているが、新競技場は全面に屋根が付いた「アリーナ型」になる方向である。

 9月14日に文部科学省で「ラグビーの振興に関する関係者会議」が開かれた。日本ラグビー協会が新秩父宮を「全天候型」の競技場にすることを要望。萩生田光一文科相は立て替え工事の主体となる日本スポーツ振興センター(JSC)に対し、要望を踏まえて整備するように指示した。

 現在はJSCがアリーナ型にするかどうかの検討をしている段階。ただ、関係者の話を総合すると、水面下ではもう少し話は進んでいるようだ。協会の要望はJSCなどとの調整を経たうえでなされたものだった。「会議は数日前に急きょ招集された。新内閣ができる16日より前に開きたかったようだ」と話す関係者もいる。そうなると、会議は「アリーナ化」への道筋を整えることが目的の1つだったとも考えられる。

 客席、グラウンドなど建物全体を屋根が覆う新秩父宮は、東京ドームのような雰囲気をイメージすると分かりやすい。収容人数は今とほぼ同じ2万数千人になる見通し。場所は少し北に移り、明治神宮第二球場の跡地となる。現在の秩父宮は新スタジアムの完成後に取り壊される予定だ。

 完成時期は当初2026年が予定されていたが、新型コロナウイルスの影響などで後ろ倒しになるとJSCは説明する。一方で、日本ラグビー協会の創設100周年となる26年11月までに完成させた方がいいという意見も出ているという。

 当初、約200億円とみられていた建て替えの事業費はアリーナ化によって2~3倍に増える見通し。屋根を開閉式にすると費用がさらに2倍に膨らむ恐れもあるといい、固定式の方向になっている。そうなると芝は人工芝になる可能性が高い。

 細部は未定とはいえ、秩父宮は近い将来、高い確率で「アリーナ型+人工芝」のスタジアムになる。これではラグビーの姿が変わってしまうと懸念する声もあるだろう。

 ラグビーは英国の村々で行われていた民俗フットボールに源流を持つ。記録に登場する12世紀以降、「競技場」となっていたのは野原や村の通り、広場が多かった。つまり、誕生の時から屋外でやるスポーツであり、雨や風という条件をどう生かすかも競技の要素だった。

 一方で「屋内球技場」のルーツもラグビー同様に古い。ドイツの歴史学者、ヴォルフガング・ベーリンガーの『スポーツの文化史』によると、1500年頃にはイタリアで屋内球技場が存在し、1598年にはパリだけで250カ所の「設備の良い」屋内球技場があったという。行われていたのは主にテニスの原型となるスポーツだったが、屋根の下の人工空間で球技を楽しむこと自体には、人類はなじみがあると言える。2017年に日本代表がフランスと対戦したパリ・ラ・デファンス・アリーナのように、近年はラグビー界でも屋根付きの競技場は増えている。

 日本のラグビー界の現状を考えても、アリーナ型の恩恵は大きい。昨年、日本代表の稲垣啓太に初心者がスタジアムで観戦する際のアドバイスを求めたことがある。真っ先に口にしたのが気遣いの言葉だった。

「寒い時期なので、見栄えを捨てた方がいい。予想以上に寒い。(防寒具などで)くるまっているような状態になることもある」。1~2月の厳寒期は熱心なファンでもつらい。まして初めてスタジアムに来た人にとっては、それだけで再訪の足が遠のくだろう。

 密閉空間で空調を効かせることで、観客は真冬でも快適に観戦できる。雨や雪にも濡れないし、紫外線を気にする必要もない。

 楕円球に触れたばかりの子供にとっても、屋根や人工芝は好ましいかもしれない。イングランドラグビー協会は自国開催の15年W杯の剰余金で、人工芝のグラウンドを多く作った。「天然芝は体が汚れるので嫌」という子供が増えていることが理由だった。

「俺たちの頃は土のグラウンドが当たり前だった。天然芝でできるなんて最高じゃなあいか」。そうこぼしたくなるオールドファンもいるだろう。英国には土のグラウンドがほとんどないという事情はあるが、現代っ子には天然芝も競技を始めるハードルになり得るという事実は、受け止める必要がある。

 アリーナ化には別のメリットもある。屋根があることで音が外に漏れにくくなる。周囲への騒音を抑えられるので、コンサートなどのイベントを多く開催して収入を稼ぎやすい。

 収益力を左右する屋根ができることになったのは、道を挟んだ「お向かい」となる別の施設が関係している。昨年完成した新国立競技場。総工費2500億円が高すぎるとして計画を見直した結果、工事費は大幅に減った。しかし、当初予定されていた屋根がなくなったことでコンサートなどに活用することは困難になった。施設運営の黒字化も難しいという見方が強まっている。「同じ場所に赤字を出す施設を2つもつくってはいけないという危機感があって新秩父宮を稼げる施設にすることになった」。経緯を知る関係者は話す。

 アリーナ化は日本のラグビー界が「世界一」を守るよすがになるかもしれない。イングランドの聖地、トゥイッケナム競技場はロンドン都心部から公共交通を使って40~50分掛かる。ニュージーランドのイーデンパークもオークランドの中心部から約30分。ウェールズのプリンシパリティスタジアムはカーディフ駅の目の前だが、大都市からは遠い。都心のど真ん中にある秩父宮の立地は、他国にない財産である。

 それは他競技や他業種の人の目にもまばゆく映る。一帯の再開発は国や東京都、明治神宮、不動産会社などが関わり、巨額のお金が動くプロジェクトとなっている。今の建て替え計画が固まるまで、「あの一等地にラグビー専用のスタジアムが必要なのか」という声は根強くあった。W杯の成功もあって今はその声は小さいが、新スタジアムが毎年巨額の赤字を出せば、将来的に同様の声が上がりかねない。

 秩父宮は第2次世界大戦後、大学ラグビー部のOBが資金を出し合い、工事の手伝いまでして建てたものである。新ラグビー場がアリーナ化で財務的にも健全な運営ができるなら、先人の遺志を末永く引き継ぐうえでもプラスに働くだろう。

 14日の文科省の会議では、日本協会から「国際基準のスタジアム」という要望も出された。完成後は世界大会を開く際の有力な会場候補にもなる。協会は2025年、29年の女子W杯などの招致の検討に入るが、「29年なら新秩父宮は当然、会場になる」と協会幹部。昨年のW杯の会場から外れた秩父宮で、今度は桜のジャージーが躍動するかもしれない。

 日光と雨風の降り注ぐ天然芝のスタジアムから、空調の効いた人工芝のアリーナへ。形は変われども、これからも「聖地」で名勝負が繰り広げられていくことは変わらない。ユーミンの「枯れた芝生の匂い」に変わる、新しい歌詞も生まれるだろう。

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