ラグビーリパブリック

【コラム】喧騒の中に。

2020.07.30

自らも芝で楕円球に親しんだミシェル・セールは、ラグビーの喧騒や狂騒を肯定的に捉えた(写真は2019年RWC準々決勝ウエールズ vsフランス:Getty Images)

■セールが訴えるのは「レフェリーの前」での自制であって、「フェア」の理念は強調していない。

 ラグビーの現場に行くことが減り、録りためたテレビ番組を見ることが増えた。その中の1つが、昨年のワールドカップ開幕の2日前にNHKで放送されたドキュメンタリーだった。

「あのタックルの先に~日大アメフト 学生たちの16か月~」。2018年、試合中に相手を故意に負傷させた「悪質タックル事件」のその後に密着した労作である。

 日大アメフト部は公式戦への出場を禁じられ、約20人の監督、スタッフは2人に減った。全権を持つ監督に従っていれば良かったそれまでから、部は一変した。練習内容を含め、チームを運営するのは学生自身。しかし、140人を超える部員はなかなか一つにまとまれない。練習への遅刻や寝坊が相次ぐ。丸刈りなどの罰則を復活させても効果が薄い。格下との練習試合でも勝てない。 

 危機感を共有するため、窮余の策として「全員キャプテン制」が採られた。円陣でのスピーチなどを学生が交代で担当する。自主性を育む試みは徐々に実り出す。「いい意味で誰がリーダーか分からなくなった」。下級生の率直な感想は、日本代表の主将、リーチ マイケルの言葉を思い出させた。「このチームには本当に素晴らしいリーダーが周りにそろっている。誰がキャプテンにいってもうまくいく」

「傷」がすべて癒えたわけではない。特に、事件の当事者だった宮川泰介はなおさらだったようだ。番組とは別の記事の中だったが、事件から1年半を経ても宮川のタックルに遠慮がみられるという談話を橋詰功監督が残している。相手を傷つけ、チームや競技そのものをおとしめた罪悪感が消えず、タックルに行く足をすくませていたのだろうか。

 ここには、同様に激しい肉弾戦が行われるラグビーにも通底する問題がある。当時も本欄で書いたが、事件の根幹にあったのは「フェア」の理念の軽視や誤解だろう。当時の内田正人監督が記者会見で強調したのは、「ルールの中」でのプレーを指導していたということだった。

 ラグビー日本代表や早大の監督を務めた故・大西鐵之祐の『闘争の倫理』から、フェアに関する記述を引用する。「自分の良心に照らして絶対に恥じない行動、それを誇りとするような共通の精神」「自分の生き方がきたないかきれいかという考え方」。ルールの遵守はフェアの大前提で、大事なのはそれよりも高い倫理観を持てるかどうか。ルールを守るだけで良しとする姿勢は「審判が見ていなければ大丈夫」という堕落に転じやすい。

「闘争の倫理」の根幹はその先にある。「人間の持っている本性を、勝負のなかで露わにし、それを人間はどういうふうにコントロールしていくべきかということを身につけるのが、スポーツ教育の目標のような気がしている」。

 闘争心がもたらす激しいタックルと、相手を傷つけてでも勝とうという執着から生まれるラフプレー。平時に両者を区別することは簡単でも、試合の興奮状態の中だとその境目が次第に曖昧になっていく。非常時に倫理的な行動を選び取れるようになることがスポーツの価値であり、ひいては平和の実現に役立つというのが大西の主張だった。

 内田前監督の話からすると、当時の日大アメフト部の指導にこうした思想はなかったのだろう。そして、事件後に部を離れた宮川も競技に復帰しなければ、「闘争の倫理」をフィールドの中でもう一度考える機会を得られなかった。

 そこで現在のコロナ禍に思いが及ぶ。今年、多くの学生がラグビーやアメフトをプレーする機会を損なわれた。「闘争の倫理」を学ぶ機会も減った。やむを得ないこととはいえ、大西が存命なら残念に思ったことだろう。

 この日本ラグビー界の哲学者と似た発言を残したフランスの思想家がいる。昨年のワールドカップ開幕の3か月前に亡くなったミシェル・セール。少年時代からラグビーに親しみ、専門とする認識論では、ラグビーのボールと選手の関係を引き合いに多様性と単一性の間のダイナミズムを説いた。

 晩年、フランスの元選手との対談で語った。「ラグビーには他にはないものがある。それは法を学べるということだ。暴力の極限まで行くことがあったとしてもやめなければいけない。特にレフェリーの前ではすぐに。ラグビーは私の法学校だった」。

 セールは別の場でも同様の言葉を残している。訴えるのは「レフェリーの前」での自制であって、「フェア」の理念は強調していない。フランスのラグビーは伝統的に荒々しく、他国よりラフプレーも多い。日本のラグビー文化と一概に比較することはできない。しかし、内なる正義感や平和への貢献にまで目を向けた大西の「闘争の倫理」の方が、この論点では奥深い思考をしていたと言える。

 ただ、フランスの碩学は“闘争の倫理”に別の視点からも言及している。主著の1つ『生成』(及川馥訳)にはこういう記述がある。

「ラグビーには観客はいない。たとえば劇団の俳優たちと平土間の観客の間にあるような距離は、群衆とチームの間にはない」

 熱狂渦巻く「闘争」は、スタンドで見ている人までその中に引っ張り込む。おらが街の選手が好タックルを決めれば拳を握りしめ、ラックの陰で殴られようものなら自分の身が痛んだように怒声を上げる。いつしか、自分がグラウンドに立っているかのような気になる。

「スタンドの紳士たちは悪党のように行動するといわれる、いやむしろ、この解き放たれた悪党が紳士の正体である」。セールが生まれ育ったフランス南部のラグビー熱は尋常でない。「私は、たまたま心臓麻痺で三人の死者のでた試合を知っている」というから恐ろしい。

 こうした狂騒をセールは肯定的に捉える。「暴力の限界にこのように身をさらし、そしてそれにふさわしく振舞ってみたまえ。この経験、それに続く路線修正、それが文化的であるどころではない、それが文化の源泉なのである」

 忘我の熱狂、そして平静を取り戻した後に我が身を振り返って「路線修正」する。混沌の中で自分や他人が変容するようなこの一連の過程は、様々な文化が生まれる場所だとまでセールは言う。大げさに聞こえるかもしれない。しかし、世界中のファンが詰めかけた昨年のスタジアムの光景を体験した人ならば、うなずける部分もあるのではないか。

 セールが「多様性の激怒狂乱」と詩的に表現したスタジアムの熱狂が国内から消えて5か月が立つ。ウイルスは再び広がり、満員の客席が戻るにはまだ時間が掛かりそうだ。

「スタンドの喧噪の中で叫ぶものを聞きたまえ。秘密はこの騒音の中にひそんでいる」。こう書き残したセールがもう1年長生きしていれば、このままでは文化が生まれない、と嘆いたかもしれない。