東花園駅の改札を出て、左に向かう。
ラグビー場とは反対だ。
恩智川の堤防を南へ下る。5分ほど歩いた住宅地に天理教の玉造分教会はある。
6代目となる後継者は野々村成朗。
名は「しげあき」だが、みな「シゲロー」と呼ぶ。母校・近大のBKコーチでもある。
「教務の優先を認めてもらっているため、思うように顔を出せず、チームに対して申し訳ない思いはあります」
月に1度の月次(つきなみ)のお祭りや上部団体になる八尾・高安の大教会を軸にする教会間のつきあいなど日々、忙しい。
その合間を縫った指導は6年目に入る。
総監督の中島茂は以前から高く評価する。
「いいコーチですな。教え方がうまい。学生と絶えず話をしています」
野々村は昨年から女子のセブンズユースアカデミーのコーチもつとめている。
この競技は小3から東大阪ラグビースクールで始めた。天理の中高をはさみ、近大、そしてサニックスまで現役を続けた。
現役時代は173センチ、74キロ。脚の速さを軸に、1点でパスを通せるなどテクニシャンになった。宗教を持つ人間の特徴でもある真面目さで練習に打ち込む。
天理高では1年からレギュラー。WTBを任された2、3年は全国4強と8強に入る。敗れたのは啓光学園(5−41)と東海大仰星(18−31)。両校は78、79回大会(1998、1999年度)の優勝チームになった。
近大は実家教会から近かった。自転車で15分もあれば着く。「イケイケ」と呼ばれた攻撃的ラグビーも魅力だった。
3年時の大学選手権(39回=2002年度)では明治を48−43で破り、8強に入った。
「前年、ボコボコにされた相手に勝てました。よかったなあと思いました」
前年度の同カードは47−75。ともにCTBで先発していた。4年生では主将も経験する。
トップリーグでのプレー希望はサニックスがかなえてくれる。4シーズン在籍した。
サントリー戦でリーグ戦初出場初先発をする。2005年12月11日。トイメンはニコラス ライアンだった。
「タックルになんぼいっても、オフロードでつながれました」
スコアは10−48。敗れたものの、日本代表キャップを38に積み上げるCTBとのマッチアップは思い出に残る。
27の年に現役を引退する。
「家のことを考えました」
教会長である父・孝雄を補佐する。父は犯罪者の立ち直りを助ける保護司でもある。並行して天理高でコーチを5年つとめた。
天理教と楕円球は近しい。
教団を統理する真柱(しんばしら)の二代目・中山正善(しょうぜん)が、外国語学校には黒、旧制中学には白のジャージーを下げ渡した。今の大学と高校の前身である。ともに創部は1925年(大正14)に定めている。
二代目は柔道出身だったが、旧制大阪高(大阪大の前身)でラグビーに触れ、自己犠牲の精神などが天理青年の育成にふさわしいと考える。天理の校技は3つ。柔道とラグビーと野球。古いOBには誇りがある。
「柔道とラグビーは真柱さんの肝いり。野球は自然発生的にできた」
ラグビーは花園出場63回。優勝は歴代4位となる6回。柔道は五輪3大会連続金の野村忠宏や篠原信一を輩出している。
野球は甲子園に夏28、春23の計51回出場し、全国制覇は2回と1回である。
天理教のはじまりは江戸末期の1838年(天保9)。明治時代に認められた教派神道13派のひとつ。そのホームページには、教会数は1万7千、信者は海外80か国を含め、200万人超と記されている。
信者は親神・天理王命(おやがみ・てんりおうのみこと)を敬い奉り、人々が心を澄まし、仲良く助け合いながら暮らす「陽気ぐらし」の世界の実現に励む。
野々村は天理教を短く語る。
「生きる指針。心の拠り所です」
毎日、朝夕2回、天理にある聖地「ぢば」に向かい、祈りを捧げる。親神によって人間創造の地点と教えられている場所である。
玉造分教会は本部から数えれば三次団体になる。信者は60人ほどいる。
野々村の子供は5人。小4の長女・ひなたを頭に3男2女。妻・ゆりは1歳の三男・太陽をおんぶ紐でゆって、家事をこなす。高校のひとつ下で、京都の宇治にある中背(なかしろ)の大教会から嫁に入った。
生活は豊かではない。
「この1年ほど、外食はしていません」
それでも訪問者には茶菓のもてなしを欠かさない。近大は、信仰のためなら清貧もいとわない野々村を支える。謝礼を渡す。
「最初は断ったのですが、それは違う、と言われました。ありがたい限りです」
コロナ禍で中断されていた近大の全体練習は6月15日に再開された。目標を口にする。
「関東のチームに勝つことですね。僕が3年の時のベストエイトが近大にとって最初で最後。学生たちが楽しくなるラグビーを考えて、そこを乗り越えていきたいです」
天理教とラグビーに心身ともに成長させてもらった。そのラグビーの知識や向き合い方を次の世代に伝える。
ある意味、これも布教である。