1989年5月28日、秩父宮ラグビー場。
その日、日本代表はスコットランド代表に勝った。名将・宿澤広朗監督のもと、個性ある選手たちが躍動。28-24だった。
この勝利をスタンドから見つめた控え選手たちの中に平野勉がいた。
盛岡工業高校から、かつて西日本社会人リーグの強豪だった日新製鋼に入社して活躍したバックロー。その後、九州電力でもプレーを続け、いま、九州産業大学で女子ラグビー部の監督を務めるとともに、地域のラグビー普及や育成に力を注いでいる。
スコットランド戦勝利の試合がおこなわれた当時は、戦術的交代などなかった。交代は、怪我などの理由でドクターの指示がないと認められなかった。
平野はこの試合、キックオフから梶原宏之、中島修二の両FLと、NO8シナリ・ラトゥの動きを凝視続けた。そして、それは試合終了まで続いた。
その試合の途中、体がカーッと熱くなった瞬間があった。中島が傷み、グラウンドにしゃがみ込んだからだ。
平野は、ピッチサイドを走って準備をした。歴史的試合の中へ、限りなく近づいた。興奮。使命感。そして不安。いろんな気持ちがこみ上げた。
しかし、背番号18のジャージーが泥にまみれることはなかった。
テストマッチのメンバーに選ばれるだけでも名誉なのに、出場機会が与えられない。歴史的試合の一員のはずなのに、その名が記録に刻まれぬ歯がゆさを、平野は何度も味わった。長く現役を続けたが、最後まで日本代表キャップを手にすることはできなかった。
ただ、ノンキャップ戦(キャップ対象試合でない日本代表戦)には6試合に出場。キャップホルダーと変わらぬ実力を持っていた。
誰より努力した自負もあれば、ライバルと同じ結果を残す自信、いや、それ以上のプレーをやる覚悟もある。でも、指揮官が声をかけてくれるまで、ベンチに座り続ける以外にやれることはない。
そんな時間を繰り返し味わった平野は、「現実を受け入れられる人間になった」。
【平野勉の金言】
スコットランド戦の途中、FL中島が傷んでピッチサイドで準備をした。
「緊張しました。自分に、あれほどの(先発のバックローたちのような)タックルができるだろうか、と。正直、責任が果たせるだろうか、恐かった」
「高校から会社に入り、すぐにレギュラーになった。その後も、いつだって試合に出られるのが当たり前でした。そういう生活の中では分からない気持ちを、ジャパンから持ち帰ったと思っています」
「ラグビースクールで子どもたちを教えていても、リザーブの子のことの方が気になり、声をかける自分がいます」