人生は自己肯定と否定の連続だ。
スポーツ選手は、特にそうだろう。トレーニングで自信をつけて勝負に挑み、破れたら悩み、勝っても慢心せず。そしてまた、前を向いて次へ進む。
トッププレーヤーだろうが、成功を夢見る選手だろうが同じだ。
宗像サニックスブルースに3年間在籍した谷峻輔がチームから離れる。
トップリーグへの出場は3試合。「もうちょっと出たかったですね。力が足りなかった。でも、3シーズン、充実していました」と話す。
布施ラグビースクールでラグビーを始め、東生野中へ。大阪桐蔭高校、大阪体育大学を経てブルースに入った。
大学4年時は、関西大学Bリーグで過ごす。チームをAリーグに昇格させて卒業させたかったが、入替戦は引き分けに終わり唇を噛む。「チャンスをものにできるかどうかで人生は大きく変わる」と肝に銘じた。
ブルースではプロ選手として過ごした。その3年を、「ラグビーに特化した生活だったからレベルアップできた」と前向きにとらえる。
もともと強みだった機動力は、さらに高まった。アジリティーも。
求められたレベルは予想以上だったから必死だった。その結果、「成長できた」の手応えを得られたことは自信になった。
トップリーグへ出場したのは、1年目に1試合、2年目に2試合。そのうち2試合はサントリーが相手だった。
途中出場でスクラムを組んだ回数は少なかったけれど、最初の年は須藤元樹、2年目は垣永真之介がトイメンだった。
ともにトップクラスのスクラメイジャーだ。目指すべきレベルを体感できたのは幸せだった。
「1年目はあまりうまく組めませんでした。2年目は、少しはましになったかな、と」
その手応えは、「こうだから押されている」と理解できたから感じた。
成長できているのは確かだったけれど、そのスピードはフィットネスなどの他の分野よりは鈍かったかもしれない。「期待されるレベルに到達しなかった」と受け入れる。
まだ25歳。できることなら新天地を見つけ、プレーを続けたいと思っている。
プロとして生きた3年は自分の財産だ。
「特に同じポジションの人とは普段はすごく仲が良いのに、練習になれば厳しい言葉を掛け合う。お互いを高められる環境がありました」
個の競争とチームワーク。それらが共存する世界で過ごした日々は、これからどんな世界で生きていこうが人生を支える。
両肩と首に感じた無数の衝撃も、フロントローの宝だ。
シーズンを終えて、調子の悪かった左肘の手術を受けた。
行く先の決まらない中で最初は不安な日々を送ったが、いろんなことに思いを巡らせた末に「やれることをやるのみ。この3年間がきっと生きる」と気持ちが変わった。
さっぱりした表情で言った。
「どの道に進もうが、おもろくしようと考えています」
大阪の人の「おもろく」に込められる思いは深い。この場合、後悔なきよう思い切って、と解釈すべきなのだろう。
スクラムに頭を突っ込むときと同じだ。体と意志を一致させて、前へ出る。