コロナ禍による学休期間中、3年生26人それぞれに小包が届けられた。
中身は文庫本1冊と新聞記事の切り抜き。差出人は永井幹生(みきお)。26人が属する報徳学園ラグビー部の部長である。
国語の教員でもある永井は特徴の穏やかな笑みを浮かべる。
「自分が読んでみて、印象深いものを送りました。3年生が何かを感じてくれたらええかな、と。きっかけ作りですね」
本はアトランダム。直木賞受賞作の『破門』(黒川博行)が届いた者もいる。
記事は同じ。低酸素脳症の後遺症で声は出るが言葉にならない女の子や前の戦争の時に満州(現在の中国東北部)へ移住した同級生を思う80代女性の文章である。
同封の手紙には、永井の思いが込められている。
<今は終わりが見えないけれど、いつかはきっと振り返って話せる日がやってきます。大きな戦争がありました。幾度となく大きな震災や災害がありました。その度ごとに生き残った者が力を合わせて次の時代を築いてきました。今、大事なのは諦めないこと、希望を捨てないこと、自身の可能性を信じること、人の身になることだろうと思います>
コーチの泉光太郎はジョークを交える。
「先生の終活です。職員室には山のように本があります。それを整理しています」
永井は来年2月22日に65歳になる。翌月の末に報徳学園を定年退職する。東には青い武庫川の流れ、西には緑豊かな六甲山系。この風光明媚な場所で42年を過ごした。
黒×エンジの段柄ジャージーに関わったのは1996年から。監督を1年して、翌年から部長になる。指導は転任してきた西條裕朗に任せ、主にデスクワークを担当した。7歳下の西條はOBで法大出身。同じ兵庫県内にある伊丹北の社会科教員だった。
以来、部長と監督として過ごす。その関係はほぼ四半世紀を迎える。野球では松坂大輔(現・西武)を生んだ横浜の小倉清一郎と渡辺元智が有名だが、監督が部長を兼務することが多いラグビーでは珍しい。
「永井先生やから、僕も安心して監督ができました。何が起こっても変われへん。いつもしらーっとしてはるからね」
「いやいや、フリーズしてるだけやで」
西條にとって、細身ながらどっしりした雰囲気が漂う永井は些事や大事が頻発する日常において、救いだった。
永井はラグビー経験者ではない。星陵ではバレーボールをかじり、一浪して入った岡山大ではウエイトリフティングをやった。
1979年(昭和54)、卒業と同時に報徳学園に赴任する。警察官をしていた父の兄とこの男子校の校長が先輩後輩の間柄だった。
「当時は元気もんの生徒が多かった。ラグビーはもちろん、野球、陸上、相撲、柔道…。みんなその頃から強かったですよ」
教室ではソフト、ソフトのコールが起こる。仕方なしに授業をソフトボールに変える。
「永井君、生徒と仲良くなりたい気持ちはわかるが、やり過ぎだ」
当時の教頭にお目玉をくらった。
バレーの顧問などをつとめたが、ラグビーから協力要請が来る。監督としてチームを全国区にした前田豊彦も「元気もん」だった。
「顧問3人でじゃんけんをして、負けた者が行くことになりました」
人身御供(ひとみごくう)のような形で岩合教夫が出て、部長になる。前田は71回大会(1991年度)を最後にがんで亡くなった。
その後、OB会主導の指導体制を経て、永井もラグビーに加わる。
強く印象に残るのは部長1年目の77回大会。この時、1952年(昭和27)の創部から現在に至るまで68年の部史で唯一、そして最高の準決勝に進む。
2回戦ではLO菊谷崇を擁する御所工(現・御所実)を23−12、準々決勝ではFL野澤武史が率いる慶應を25−24と連破した。2人は後年、日本代表キャップ68と4を得る。
「御所に勝ったのが大きかったね。トライで負けていたのに、キックで勝ちました」
トライ数は1−2。PGは6本決まった。キッカーはSO中村大輔。今はヤマハ発動機の運営統括をしている。
4強戦は17−39で國學院久我山に敗れた。その久我山は伏見工(現・京都工学院)を33−29で下し、5回目の全国制覇をする。
報徳学園の花園出場は昨年まで4年連続45回で、4強1回、8強6回。全国の強豪に数えられるようになる。8強以上の7回のうち5回は永井−西條のコンビでなされている。
コロナの影響を受けた学校も6月1日から通学が始まった。ラグビー部は7日、今年度初めて3学年での全体練習を行った。
1年生は38人が入部。その中にはセブンズユースアカデミーのテスト生であるSO伊藤利江人(りえと)がいる。父は明大ヘッドコーチの宏明。部員は92人になった。
「なんとか全国大会をやってもらって、先生を最後の花園に連れて行ってあげたいです」
泉は力を込める。
「もう一年、もう一年と思っていたらここまで来ました。こういう強いクラブで長に据えてもらって、部長、部長と呼んでもらえてね。幸せな人生? そうそう、そう思いますよ」
永井は笑み続ける。
75年ほど前、海軍の士官を育てる兵学校で鈴木貫太郎は校長の井上成美に言ったという。
「教育の成果が出るのは20年後だよ」
鈴木は海軍大将を経験した首相として、前回の大戦を終わらせる。兵学校ではラグビーも棒倒しなどと並び広くなされた。
20年—。
同じ年月を3年生が無事に過ごせば、不惑の手前になる。その頃、このコロナの時代に本を送った思いを感じる者が増えていればいい。それだけで、永井の報徳学園での教えは、意味あるものだったことになる。