ラグビーリパブリック

仲間と仕事とふるさと。大野均、現役引退会見

2020.05.23

5月22日のオンライン会見の模様。一社一名に限ったエントリーにもかかわらず、50人を超える参加規模になった(写真提供:東芝ブレイブルーパス)

 規格外の逸材だ。だけど、まさか、そこまでやるとは思わなかった。

 積み上げた日本代表キャップ98。大学で初めてボールを触った時の彼を見た人は、きっと今まで何度もそうつぶやいただろう。

 2020年5月22日午後、東芝社内で大野均選手が現役引退の心境を語った。ウイルス感染拡大の影響で、オンラインでの記者会見となった。

 日本代表として98キャップ(出場数)は、日本史上最多。大学の地域リーグ所属、「日大工学部」でラグビーを始め、縁をつかんで東芝(当時は東芝府中)に加入したのが2001年。当時はまだトップリーグ 創設前で、東日本社会人リーグが戦いの舞台だった。2004年に日本代表に選出され、ワールドカップには2007年、2011年、2015年と3大会に出場した。

 引退の理由は両ヒザのケガによるもの。東芝での現役生活は19年におよび、現役ではトップリーグ 最年長選手だった。

 会見の冒頭は、応援を続けてくれたファン、選手として自分を見出してくれたチームと、農業・牧畜を営む両親、地元・郡山の後援会への感謝を口にした。会見は周りの人や恵まれた環境への謝意が繰り返された。

「大事にしてきたことは激しさ。大学からラグビーを始めて、パスもキックもへた。どうしたらチームに貢献できるか考えたら、走ることと激しさだと思った。自分にとってはごくシンプルなことで、それがよかった。あれもこれもできる選手だったら、迷ってしまって、ここまで長く現役でい続けられたか、わからない」

 まさか、そこまでやるとは思わなかった。2011年の「老兵」は、2015年になってより成長しチーム内で重要な存在になっていた。

 2011年W杯、ジョン・カーワン ヘッドコーチの元、1分3敗で終わった日本は世代交代のタイミングにあった。しかし、すでに34歳だった大野は、新監督エディー・ジョーンズの最初のスコッドに名を連ねた。「チームには、文化を伝えていく選手も必要」。指揮官の大野に対する当初の役どころは、チームを未来へつなぐベテランだったはずだ。それが、結局2015年になるとますます欠かせない選手になった。まさにジャパンの文化を背負って戦える選手だったからだ。勤勉さ、あくなき勤勉さ。2015年、日本が南アフリカを破った試合では先発。大野均の能力の埋蔵量は、周囲の見立てよりもずっと偉大だった。2019年W杯の初8強の快挙につながる土台にもなった。

「日本が世界で戦うなら、ハードワークという要素は欠かせないと思います。昨年のW杯で日本代表が躍進できたのは、ジェイミー(ジョセフ/HC)がハードワークと、自主性を尊重したからだと聞いています」

「昨年、日本が4勝したことで、日本中の選手が自信を感じられたと思います。日本のラグビーは強いんだという自信を積み重ねられれば、次のフランス大会でも、ベスト8以上の成績を残せるはずです」

 2018年の9月。そのころ後半途中出場の多かった大野が、珍しく先発起用をされた試合があった(4節コカ・コーラ戦)。60分間を駆け回ったLOは疲弊していた。この日、105キロの体重は試合後にふた桁にまで減っていた。試合の様子を見ていればわかる。大野均は動き続ける。タックルや密集に入った後の選手はふつう、ふうっと「一息」が入ってしまう。しかし大野均だけは、決して軽やかではないがすぐに立ち上がった。次の仕事を求めて、まっすぐに、いくべきところ向かった。コンタクト、味方へのサポートの瞬間のスピードは若手よりも速い。ただ、インターバルの動きは決して速くはなかった。WTBでもプレー経験があるほどの走力を持つ大野をして、そこまで疲弊するほどの仕事量をこなしていた。

「自分が所属したチーム――日大工学部、東芝、日本代表、サンウルブズは、本当に魅力的なチームで。このチームで勝ちたいと思わせてくれたので、その時々、自分ができることを身を投げ出して尽くそうという思いでやっていました」

 ふるさとを愛する選手だった。

「2011年の震災で、辛い思いをした、いまでも辛い思いをしている人がたくさんいる。自分は、ラグビーでその苦しさをひと時でも、忘れてもらえたらと。そういう試合をしたいという思いでずっと続けてきました」

「福島の人たちって本当に強い人たちだと思っているんです。私も、皆さんを見習ってここまでプレーすることができた。これからは地元、福島の人たちに対して自分ができることをやりたい。福島県の若い人たちの元気は、県全体の元気になると思う。まだまだ復興に関しては道半ばだと思いますが、自分たちがその主役になるという気概で、将来に向かっていってもらいたい」

「私の信条は、灰になってもまだ燃える、ですが、去年の秋ごろからヒザに痛みが出て、昨年末まで長い間、リハビリ、調整を続けてきましたが回復が見られませんでした。W杯の日本の躍進、東芝のラグビー部内では若い選手たちの台頭に触れ、頼もしく感じました。これ以上選手としてやり残りしたことがないという思えて、引退を決意しました」

 2019年末からはもう走ることも難しいほど、両膝の状態は悪くなっていた。1月から始まるトップリーグ について、これが最後になるかな、と思いながら過ごしてきたという。

 延々と続く治療、よい兆候は一向にやってこない。それが、ある日の朝、目覚めてみるとヒザが、軽い。あ、今日は走れるかな、と思って外に出た。2歩、3歩と走ってみたら、やっぱり痛みは引いていなかった。

「ああ、ここが潮時だろうと、感じました」

 3月23日、新型コロナウイルスの蔓延により、トップリーグ2020は6節を最後に中止が決まった。最終シーズンは出場記録なしとなった。

 大野選手は、どうしてそんなに大きいんですか。

 昨年末、子供たちを対象にした普及イベントで、尋ねられた時の応対が素敵だった。

「お母さんが毎日、一生懸命作ってくれるご飯を、たくさん食べたからです」

 照れた顔でマイクはがっしりと握りながら話した。万事がそんなお人柄だ。人がいてくれて自分がある、という立ち方をしている。笑顔で、大勢のファンや子供たちに囲まれていたこの頃は、思えば「走るのも難しくなったころ」だ。

「ラグビーでは自分みたいにパスが下手でも、キックができなくても、自分の得意なもので勝負できるポジションが必ずあるんですよね」

5月22日の無人の会見は、伝える相手が目の前におらず、心許ない思いで話していたに違いない。このフレーズを何度も、繰り返していた。ただ、その思いなら、彼のプレーを見てきた人ならばもう大事に受け取っていて、いつまでも胸に残す。

 現役年齢は41歳10か月と16日。日本代表キャップなら98。数字で抜ける選手はいるかもしれないが、大野均のような選手はおそらく出ない。