ラグビーリパブリック

【コラム】 キンちゃんのメッセージをもう一度

2020.05.19

ひたむきにプレーし続けた大野均の背中を後輩たちはしっかり見ていたはずだ(撮影:松本かおり)


 大野均が現役生活にピリオドを打った。
 42歳。日大の、しかも本流ではなく工学部のチームでラグビーを始めた異色の男が、密集に体を投げ出し続けた24年間に区切りをつけた。

 アタック。ボールを持って前進する味方のそばにはいつだって大野がいた。ディフェンス。ラックやモールに真っ先に突入して相手の塊を崩すのは、いつだって大野だった。目立たないけど、誰より頼りになる。そういうプレーヤーだった。
「灰になっても、まだ燃えたい」。現役であることのこだわりをそう表現していたが、ある時、もらしたことがある。「実は、もう『灰』なんですけどね」。まさに燃え尽きたのだろう。

 朴訥な性格とは真逆の、破格なエピソードに事欠かない人だった。
 素人だけど、体の強さ、速さ、仲間のために体を張る覚悟はピカイチ。LOでもWTBでも桜のジャージーを着てピッチに立った二刀流。若い頃、「アイツはルールを知らないのにジャパンになった」と周りを冗談交じりにあきれさせた。

 自身にとって初出場だった2007年W杯のフィジー戦。80分間を戦いきると体重が6キロ減っていた。水を飲んでも吐いてしまうほどバーンアウトした。
 エディー・ジョーンズが日本代表ヘッドコーチを託された時、大野は33歳。「次のワールドカップ(W杯)でキンちゃんはプレーしていないだろう」と名将から言い放たれたのにもかかわらず、気づけば「スポーツ史上最大の番狂わせ」、2015年W杯の南アフリカ戦のピッチに立っていた。

 そのエディーから日本でただ一人、飲酒を許可された酒豪。「酒を飲んでもパフォーマンスが落ちない選手を3人だけ知っている。マットフィールド、ジョージ・スミス、キンちゃん」とはエディーの名言だ。南アの名LO、オーストラリアが誇るジャッカルの達人と同列に並べられた。

 ちょうど1年前、大野にロングインタビューをする機会に恵まれた。テーマは「出場した3度のW杯を振り返って」。負けるのが当たり前だった2007年フランス大会から、本気で勝ちにいって3勝を挙げた2015年イングランド大会まで。ジャパンの歴史が激しく動いた時代に、大野は縁の下で体を張った。自国開催のW杯を前に、その歩みを改めて語ってもらうことは、日本のラグビー界にとって小さくない意味があるのではないかと考えた。

 あの1年前。その後のW杯があれほどまでに盛り上がると、誰が予想できただろう。
「僕はサポートする側に回りたい」。大野はきっぱり語っていた。現役選手としてジャパンに貢献するのは、もう無理だ。ならば自らのキャリアを生かし、公の場に出てラグビーの魅力を伝えよう。それが、いまのオレにできることだ。
 練習後、体のそこかしこをアイシングしながら優しく笑ったヒゲ面に、そう書いてあった。

 自国開催の大一番を控えた後輩たちへのエールを尋ねると、こう答えた。
「先輩たちの頑張りがあったから、いまがある、なんてことは言いたくなくて。いま、自国開催のW杯に出られる立場にいることを、心から楽しんでくれたら」
「究極の非日常を、思いっきり楽しんでほしい。祭りの主役は、選手なのだから」

 W杯開幕の直前、2時間を超えたインタビューを4回に分けて寄稿した。いま読み返すと、大野の一言一言は実に示唆に富んでいる。彼の思いを汲んだような後輩たちの快進撃を目の当たりにしたから、なおさらだ。

 引退を決心した理由は、近く開かれる本人の記者会見を待とう。
 その前にもう一度、ジャパン最多、98キャップを刻んだレジェンドの足跡を、1年前のインタビューで紡がれた自身の言葉で振り返ってみたい。
 98キャップ。
 3ケタを目前にジャージーを脱ぐあたりが、謙虚で後輩思いな大野らしく思える。
 早くオレを超えろよ。オレができたんだから、みんな、できるよ。
 途方もなく偉大で、でも日本中のラグビーマンたちの背中をそっと押してくれるような98という数字だ。