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【再録ジャパン_01】リーチ マイケル [2008年10月号/解体心書]

2020.05.18

「『ジャパンになる』。ウエールズでそう思えました。自分の本当にしたいことは何か。ひとつ道を決めて歩いてゆきたいほうなので」(撮影:髙塩 隆)

*『ラグビーマガジン』にかつて掲載された2019年日本代表選手のインタビューを抜粋して再録。

【夢の続きの、いっぽん道。】

[連載・解体心書]マイケル・リーチ(東海大2年)

6月にウエールズで行われたU20世界選手権ではキャプテンを務めた。「冗談でしょ、…俺?」と思わず言葉が漏れるキャスティングだったが、誰より強く抱かれたサクラへの誇りは、高校入学、来日前からの憧れに根を差している。ルーツはNZ、ふるさとは札幌。次の目標はジャパンに決めた。芯の通ったマイケルは今年きっと、もっと輝く。(文:成見宏樹)


 NZでは小学校が5年、中学が2年、高校が5年という学制が敷かれている。スコットランドにルーツをもつリーチ家の次男坊は中学時代から「将来は日本でラグビーを」と決めていた。

 フィジー出身で、出張中の白人男性(マイケルの父・ジェフリーさん)と出会い、NZに渡って家庭を築いた母(エヴァさん)は、異国で暮らすことの意味、人が拠って立つものの重要さを知っていたからだろう「高校を出てからにしたら」と息子の肩に手を置いていた。

 海辺の少年が都会を夢見るようなNZと日本をつなぐ物語は、ことラグビーにおいては真逆の位置どりにも見える。ラグビー王国の男の子が、サクラの楕円球文化に憧れを抱くようになったのは、日本人留学生のプレーぶりを目の当たりにしたことがきっかけだった。啓光学園、東福岡、そして札幌山の手といった高校生たちの影響だ。

 マイケル・ジェフリー・リーチがラグビーを始めたのは5歳のころ。クライストチャーチ郊外のパパニュイから、兄と自転車で通ったバーンサイドは、地区代表カンタベリー(当時)に選手を送り込む有名クラブで、リーチ家の方針で選ばれた環境だった。父は元HO、兄と姉はPR(姉のエミリーさんは現役)、妹もタッチラグビーに親しむ楕円球ファミリーである。

「6歳に上がるとコンタクトのあるラグビーが始まります。僕は背が小さかったからSH。といっても周りは8歳の子達でした。週に2回練習して、週末は試合。同級生に交じると誰も僕のことを止められなかった。家の隣の、道路の向こうの広場では、よくマオリの子が集まってきてはラグビーしてました。僕も小さい頃から加わった。歳は…6歳くらいから、高校生まで。バチバチ(拳を手のひらに当てて)。それでもケガなんて誰もしないですよ。だからマオリは強い」

 そんな王国を半年間体験する日本人留学生たちがいた。学校の寮が休みに入ると一般家庭で過ごす。リーチ家も、彼らをスポットで受け入れるホストファミリーの一つだった。そこで日本人のプレーに触れて驚いた。ローティーン、王国生粋のラグビー小僧はその質の高さに感激してしまう。

「興奮しました。マジでうまいですよ、日本の高校生。NZでもみんなの中で普通にやれていたし、一つひとつのスキルに関しては本当にすごい。パッシングスキル、キックもいい、コンタクトも強い」

 マイケルいわく、スキルとは単にテクニックを指すのではない。

「それまで自分が『だいたい』の感じでしか教わってなかったことを、深く考えてやっている。それに人間的にもすごく楽しい人たちだった。この国に行ってラグビーをやりたいと思いました」

 セントビーズ高校に入っての2年間には、日本語の勉強も始めていた。これと決めたら突き進むタイプなのだ。そして高2(日本の中3にあたる)の時、「大学は日本で」の夢が、思わぬ早さで目の前に据えられることになった。

「札幌山の手に留学していた幼なじみの人が、札幌に来ないかと誘ってくれた。いま拓大にいるニック・イーリーっていうんですけど…。母はまだ早いと思っていたみたいですが、お父さんは『うん、いいよ』

って言ってくれました」

 NZのクラブライフと、日本の体育的部活動とのギャップは。

 日本語のカベは。

 ホームシックは。

 留学後の生活に、周囲が予想するような試練はなかったという。

「NZに帰りたい、とか真面目に思ったことは、ないです。すぐ慣れました。ラグビー好きだから毎日できるのは嬉しかったし、細かく、いろんな練習ができる。U20でも日本はモールが強かったのですが、あれは身につけるのに時間がかかる組織のスキルですよね。向こうのトレーニングではたぶん、時間をかけられない部分。そういうところも磨けて、強い相手にも立ち向かえる。思っていたとおりの日本でした」

 札幌のホストファミリー森山家は、今でも東海大がオフになると帰省をする「実家」だ。男3人兄弟の末っ子、展行(現・大東大4年)が山の手ラグビー部の先輩で、NZ時代に、リーチ家が留学生として受け入れたつながりがあった。

「森山ハウスは、すし屋さんなんです。ご飯が本当においしくて、みんな優しい。ご飯といえば、若いコーチの伊藤先生にもお昼に連れて行ってもらった。僕の高校1年のときの目標は体を大きくすることでした。初めはまだ80㌔ないくらい。細くて通用しなかった。伊藤先生と一緒のときはいつも400㌘のハンバーグを二つ。日本ですごく食えるようになった(笑)。こっちに来て後悔したことはないですね。あーでも、夏合宿だけはもう結構です。高1から花園でプレーできました。1回戦、新田に勝って、次に埼工大深谷に80―5で負けた。クリスチャン(現・東芝)にやられましたよ」

 札幌時代にマイケルを襲った唯一の試練がある。

 高校2年の梅雨時、パパニュイの家が火事に遭った。幸いみんな無事だったが、この時ばかりは足元がふわふわとして、気持ちは沈んだ。

「6月。6月18日でした。しばらくして、家からメールが来て、学校からお金が送られてきたというので、驚いて電話かけ直しました。そこで初めて幹夫先生がしてくれたと分かって。本当にいい人。みんないい人ですよね」

 ラグビー部監督の佐藤幹夫監督が、教え子には何も伝えずに奔走し、ラグビー部の家庭はもちろん校内、他校、地域にまで働きかけて厚意を募った結晶だった。

 物静かな少年は高校ジャパンを目指すようになった。

「何ができるか考えたら一つしかなくて。先生や皆さんや山の手に恩返しする、気持ちを個人で形にできるのは高校ジャパンだなと」

 花園には1年から3年連続で出場し、3年時は1回戦で萩工に敗れたが、夏の高校日本代表に選ばれた。喜んだのはもう先生や部員だけではなくなっていた。札幌から初めて、北海道からは遠藤幸祐(中標津出身。現・クルセイダーズANC)に続く二人目の選出だ。豪州遠征では、日本の、トップ選手の意識の高さにあらためて刺激を受けた。

 進路は、教員免許の取れる大学から選んだ。「高校の時は日本語以外はあまり勉強しなかったけど」、東海大学体育学部では、周囲いわく文武両道の鑑の生活。いまは「日本国憲法」の単位取得に手を焼いている。

「昨年、東海は悔しい負け方をしているので、今年はどう勝つかを知っている。将来はできればトップリーグでプレーして、いつか札幌に戻って、山の手の監督に」。遠い将来の暮らしは、すでにイメージができている。NZの家族も背中を押してくれている。

 一方、近い将来の目標はふらふらと揺れていた。マイケルには現在も三つの選択肢がある。

「NZ、フィジー、日本。どの代表を目指すのか、なんて考えてしまって。日本代表になったらNZ代表になれないぞ、とか。もし可能性があるなら…、とか」

 6月、U20ジャパンの主将になったことは、転機なのかもしれない。

「日本人じゃないのに。難しかったですよ」と苦笑いするが、選手主体のチームは短期間で大きく変わった。「周りが“感じ”て、いろいろ助けてくれたから」(マイケル)。U20薫田真広監督にとって主将・リーチは早くから温めていた人選だった。いわく圧倒的なプレー水準、何かを背負って戦えるメンタル、シンプルなのに重みがある言葉。ウエールズでは地元クラブから声をかけられる体験もした。

「フランス戦はだめでした。ウエールズ戦はよかった。イタリアには絶対勝てた。トンガは最後の最後でふたつ(トライ)取られて負けた。ゲーム運びも大きかった。もう少しなのに勝てない。スキルは日本の方が本当に高い。その生かし方がまだうまくいかない。よくみんな言うのは、ガイジンは強い、手足が長い…。必ず言う。でも日本人も強いですよ。長いとか短いとかも関係ない。絶対勝てます。

 この大会の間に、ジャパンになろうと思えました。周りがいろんなことを言って、あれこれ考えるのは自分の邪魔になる。『自分が一番したいことは何?』。ひとつ決めてやりたいほうなので。

 僕は日本で勉強して、プレーして、いろんな人に応援されている。きっと先生になるんだし、この選択は将来のためになると思う。実力的にも日本は、たとえばフィジーよりは絶対この先強くなる。対戦した選手たちにもウエールズで会った人たちにも、言われましたよ。『ジャパンは年々、変わってきているね。10年前とはまったく違う』…。

 それとU20でやってみて、個人的にもまだまだダメだと思いました。課題はタックル。これまでは、まだ日本らしくないというか、上にいったり、そういうテクニックに逃げていたのかもしれない。もっと気持ちで入るようなスキルを身につけないと、ここから先は通用しません」

 ジャパンへ続く道は与えられたものではなく、この夏、自ら選んだ新しい夢になった。

「なるべく早い時期に、なりたい」

 パパニュイの実家を出る間際、15歳の時、あっさりと渡日を許した父がかけた言葉は「お前の、ルーツはNZ、フィジーにある。それを忘れるな」。のちに迷いの背景にもなった言葉だったが、そのもう一つの意味が、最近は分かる気がする。

「僕はほかの誰かになろうとしなくていい。大切なことは自分にきく。いま信じられるのはそういう感じです」

 歩もう、このいっぽん道を。


File


●名前/マイケル・ジェフリー・リーチ(Michael Geoffrey Leitch)


●生年月日/1988年10月7日生まれ、NZ・クライストチャーチ出身


●身長・体重/189㌢・100㌔


●学歴/ノースコート小(小中とバーンサイドRFCでプレー)→ケイスブルック中→セントビーズ高→東海大体育学部2年


●代表歴/高校日本代表(‘07年度豪州)、U20(‘07年度ウエールズ)


●家族構成/父・ジェフさん(50歳)、母・エヴァさん(48歳)、姉・エミリーさん(27歳)、兄・ボビーさん(23歳)、妹・アネさん(13歳)


Rugby


●ラグビーを始めた年/5歳


●ラグビーを始めた頃の憧れの選手/ジョナ・ロムー


●ポジションの変遷/SH→PR→HO→LO→FL→NO8


●尊敬する選手/アモンさん(宮本誉久/NEC/前・東海大主将)。「いつも100㌫を出す。人の倍やる。自分自身にとても厳しい完璧なキャプテン。これまでプレーした選手で最高の人」


●目標とする選手/リッチー・マコウ、ジェリー・コリンズ(ともにNZ代表FL)


●目指すプレースタイル/オールラウンド・プレーヤー


●負けなくないライバルがいれば/前川鐘平(東海大2年FL)。「すごく強い」


●どこに勝つのが一番うれしい?/海外の代表チーム


●影響を受けた人物/佐藤幹夫先生(札幌山の手高・監督) 


●気に入った遠征地/ウエールズ「重要な経験を積めた地(’08年・U20世界選手権)」


●好きなラグビー場/札幌・月寒ラグビー場


●好きな海外チーム/オールブラックス


●ラグビーのゴール(最終目標)は?/JAPANで勝つ!


自分のこと


●好きな食べ物/そば


●苦手な食べ物/なし


●好きな映画/『ONCE WERE WARRIORS』(1994年/マオリ族の誇りを描いたNZ作品)


●好きな俳優/Jake Tha Muss(上作品に出演)


●好きな音楽/R&B


●携帯・メールの着メロ/ふつう


●趣味/バスケ


●ニックネーム/マイキー(命名は東海大・加藤尋久ヘッドコーチ)、マイケル、ボブ(幼い頃。兄ボビーに似ているから)


●これがなければ生きていけない!/iPod


●故郷のお国自慢/札幌。人と環境が素晴らしい


●いちばん落ち着ける場所/森山ハウス(高校時代のホームステイ先)、伊藤充晴先生の家(高校時代のコーチ)


●無人島に3つだけ持っていけるとしたら/iPod、ウーファースピーカー、ラグビーボール


My Favorite


①札幌時代のホストファミリー、仲間、クラスメート、大学進学後のスナップなど写真いっぱい。特に札幌への思いは深い。


②映画『ONCE WERE WARRIORS』のDVD。「ブライス・ロビンスさん(前号)と同じですね。僕はマオリではありませんが、NZでは有名な作品」


③加藤さん(東海大HC/元日本代表7人制コーチ)にもらった、本物の7人制フィジー代表ジャージ。「“いる?”って、ぽんと渡してくれました。すごく嬉しかった」


④キックボード「学内の移動はこれで。部の倉庫のところにずっと置いてあったのを、もらいました」

年齢、所属などはすべて当時のもの。