4月23日の午後3時20分、岡部文明さんが生涯を閉じた。71歳だった。
ラグビーマンで画家。昨年のワールドカップ時には横浜の赤レンガ倉庫1号館で作品展を催し、多くの人が足を運んだ。
岡部さんは福岡工業高校の2年生だった1965年の岐阜国体に出場し、スクラム練習時の事故で四肢に障害を負った。
しかし重ねたリハビリと、父のすすめで抱いた夢の力により、画家としての道を歩んだ不屈の人だ。
ピエロを題材に、世の中、人の心の中を映し出す作品を描き続けた。サーカスで出会ったひとりをきっかけに、世界中で多くのピエロと会い、こう感じたからだ。
「演じているときは男でも、女でも、ある意味人間でもなくなる。一人ひとりメーキャップも違う。でも、化粧の下には同じものがある。人々に安らぎや、幸せを与えたい気持ち。そして、真実を見つめる目を持っていた」
だから、「自分がピエロになりすまして、彼らの目、心で世の中を見つめ、人間の優しい部分、愚かな世界を描こうと思った」と話していた。
16歳で四肢の自由を失った。事故直後は、ラグビーをやっていたばかりに…と思った。でも、下を向きかけた少年に、前を向くきっかけを与えてくれたのもまた、ラグビーだった。
大分・別府の病院で療養、リハビリに取り組んでいた1967年3月。来日していたNZU(NZ大学クラブ選抜)の選手たちが病室を訪ねてくれた。マオリの木彫りなどを手に、ミック・ウィリメント、リック・アッシャー、マレー・ブラウン、スティーブ・リーニーの4人はとても優しかった。
手足の動きは不自由になったけれど、ラグビーがつないだ出会いに触れ、岡部さんは「自分はこの先も、ラグビーマンとして生きていいのだと思った」。
その縁は長く続いた。
2011年、ニュージーランドでワールドカップが開かれるのにあわせ、岡部さんはウェリントン郊外のポリルアで個展を開いた。そのとき、44年前にお見舞いに来てくれた中で健在だったふたりが会いに来てくれた。ウィリメントさんの奥さんとも話した。
NZU関係者が開いた記念の会で、世話役のロジャー・ドラモントさんがこう挨拶した。
「ブンメイ、あなたが思いを長く持ち続けたことで、今回、こんな素敵なパーティーができました。あなたはみんなに、ラクビーの素晴らしい点をあらためて思い出させてくれましたね」
ニュージーランド人にそんなことを言われ、岡部さんは嬉しそうだった。
作品と人柄で多くの人を笑顔にした。そして、いろんな思いを抱かせてくれる方だった。
【岡部文明さんの金言】
2011年、ニュージーランドで岡部さんは、友人たちに何度も、何度も、こう言った。
「アワ・フレンドシップ・イズ・フォエバー」
リハビリ中に訪ねてきてくれた恩人たちに44年ぶりに会う前に。
「あのとき下を向いていた少年が私です、と見てほしかった」
「戦争で亡くなる。事故や津波に遭う運命の人も。僕の場合、ラグビーと出会い、ケガもしたけど、素晴らしい人生が待っていた。与えられた、感謝すべき運命です。体の自由は失ったけど、精神の自由はある」
「ケガをしてからですよ。僕がラグビーマンになっていったのは。ラグビーをやったのは1年半だけなのに、そのお陰でいろんな人と会えた。誇りを持たせてもらった」