その昔、神戸製鋼にこんな言葉があった。
「ナンジョー以下みな若手」
その南條賢太も11月で48歳になる。
今は小学生にタグラグビーを教えている。1〜6時限の授業に組み込まれている。
活動するのは生まれ育った東大阪だ。
タグと呼ばれる腰ひもを取ればタックルが成立。肉体の接触がない分、体の大きさや性別に関係なくプレーできる。
「ライフワークにさせてもらえたら、と考えています」
PRだった現役時代と変わらない日焼けした丸顔。今、その表情は柔らかい。子供たちからは「ナンちゃん」と声がかかる。
2010年、南條は市でワールドカップを誘致することを軸にしたアドバイザーになった。神戸製鋼から近鉄に移籍。花園ラグビー場をホームにするチームで現役引退した後だった。市は「ラグビーのまち」の周知徹底を目指していた。
その手段のひとつがタグラグビーだった。
「市内には51の小学校があるのですが、そのすべてを回りました」
夏が来れば丸10年。市の望み通り、ワールドカップはプールマッチ4試合が行われた。
以前、助手だった宿利誠と阿多翔一郎は市の小学校教員となった。宿利は加納、阿多は桜橋。南條の影響で教職の道に進んだ。
その報酬は低い。この国の平均年収にはるかに及ばない。日々の生活は他チームとのかけもちでしのぐ。今はアナン学園高のラグビー部の監督でもある。それでも、タグラグビーの指導をやめることはない。
「嫁に言われました。『パパは小学生を教えている時は目がまんまるになっている。だからこの仕事は続けて下さい』って」
南條の笑顔を見て発せられた言葉は、同時に嫁・さくらの遺言になる。
旅立ったのは3年前の11月12日。4年近いがんとの闘いで力尽きる。小学生と交流を続ける意志は鉄石になった。
結婚したのは南條が神戸製鋼時代の2004年。さくらの旧姓は田中。エレクトーン奏者として、朝日放送の情報報道番組『おはよう朝日です』に出演。CMの前後に時間を伝えるなど関西の朝の顔として活躍していた。
残してくれた子は2人。長男の幹英(かんた)は大阪桐蔭高の新3年になる。母の血を引き、音楽の道に進んだ。ラグビーや野球と並ぶ全国屈指の吹奏楽部でトランペットを担当。長女のひなたは小4に上がる。
悲嘆にくれる別れは他に2度あった。
幹英とひなたの間に男の子を授かる予定だった。さくらに陣痛が始まり、病院に運んだ。その時には胎内で心臓が止まっていた。
「生まれてくるのは当たり前じゃない。奇跡だということを知りました」
父・弘昌は大学3年の秋、命を絶った。父は玉川中から始めたラグビーを大阪工大高(現常翔学園)、明大へとつなげてくれた。
訃報が入った夜、紫紺の仲間は寄り添ってくれる。主将だった元木由記雄は10時30分の門限を破らせる。
「藤に車で送らせるから」
藤高之の運転で八幡山から新宿に向かう。大阪へ向かう夜行バスに飛び乗る。2人は高校から1年上の先輩だった。
同期の渡辺大吾は新宿まで同乗してくれ、おにぎりとお茶を渡しながら言った。
「家に着くまで、できるだけ泣いとけ。おまえは長男やから、お葬式では泣かれへんぞ」
元木は日本代表キャップ79を得るCTB。藤はHO、渡辺はFBとして大学屈指だった。その夜のことは鮮明に覚えている。
初七日を終え、南條は京都でチームに合流する。同大との定期戦があった。
「新幹線のホームで待っていたら、元木さんを先頭にみんなが歩いてきました。元木さんは僕の着替えが入ったバッグを渡すと、そのまま肩を抱いてくれました」
その年、第30回大学選手権(1993年度)では決勝で法大を41−12で破る。明大は早大と並び最多10回目の優勝を果たす。翌年、南條が主将になる。大学選手権は準優勝。大東大に17−22と及ばなかった。
神戸製鋼入社は1995年。6000人以上が亡くなった1月17日の阪神大震災から2か月と少ししか経っていない。
ラグビー部の同期はひとりだった。
「前の年に元木さんや藤さんらそうそうたる顔ぶれが入って、僕らの代は敬遠しました」
2人のほかに、PR中道紀和、NO8伊藤剛臣、CTB 吉田明、WTB増保輝則。全員が桜のジャージーに袖を通した。
翌年の入部はLO小泉和也とSH苑田右二。その下はFB八ッ橋修身。後輩が少なかったため、南條は長く下働きをする。図抜けた代との比較も含め、「みな若手」のゆえんである。
神戸製鋼には14年在籍した。
2003年のトップリーグ開幕年からは、賢太ではなく、父がつけたかった「健太」を供養も込め、登録名として使う。
その年、神戸製鋼は初代王者に輝いた。
プロとして入った近鉄では膝を痛め、1年で退団する。選手兼任コーチの打診は固辞。タグラグビーに舵を切った。
現在、新型コロナウイルス感染拡大が止まらない。東大阪の小学校も例外ではない。春休み前には休校措置が取られた。
「僕は学校が再開されたらタグラグビーができるように準備をしておくだけです」
南條には夢がある。
「おらが町のチームが作れたらいいですね」
指導の中で、極貧が存在することを知る。
「スポーツをやるお金がない子たちがいる。そういう子たちが働きながら戻れる場所ができたらなあ、と思っています」
父との別れで大切なことを教わった。
「楽しく生きる」
好きなラグビーで子供たちの成長に寄与する。いずれその経験をチーム組織に生かしたい。生まれ育った街への恩返しを下地に、明大の部訓「前へ」の精神で生きて行く。