今年7月で69歳。
新年度からも教壇に立つ。
小林耕司は教員として一流。同時に大阪における中学ラグビーの名伯楽でもある。
「こんなに長くなるとは思っていませんでした。気づいたらこうなっていました」
丸い顔が笑み崩れる。
淀川の北にある摂津市。その第一中学校で支援学級を担当する。
「一緒にいるのが楽しいです」
知的や身体などの障碍を持つ生徒たちを教え、導く。
小林は「摂津ラグビーの父」である。
市内に中学は5校。そのうちラグビー部があるのは3校。そのすべての創部に関わった。自身は一中と五中。卒業生には日本代表や俳優もいる。四中は教え子の橋本知(さとる)が立ち上げる。摂津市ラグビースクールの設立(1981年)にも尽力した。
家族は妻と息子2人。次男の洋平は北摂つばさ高の数学教員。ラグビー部の顧問でもある。父の背中を追いかけている。
小林が楕円球に触れたのは、茨木高に入学直後。「いばこう」と呼ばれる進学校は、冬の全国大会出場こそないが、旧制中学時代の1945年(昭和20)に創部された。大阪では名門のひとつに数えられる。
「同級生に、どついたり(殴ったり)、蹴ったりせん限り、何してもええ、と言われてね」
同級生の名は北岡良雄。現在は大阪大で物理学の特任教授をつとめる。
相撲出身もあって、170センチ、70キロの体ながらPRになった。高校最後の試合はラフだった。
「スクラムを組んだ瞬間、パンチが飛んできました」
今のようにテレビ判定やタッチジャッジのアピールもない。荒っぽい時代だった。
一浪後、関大の法学部に入学。ラグビーは工学部クラブ(現K.U.E)で続けた。司法試験合格を目指したが、事務室の行列に興味本位で並んだら、教員採用試験の受付だった。
「ペーパー試験1回と面接で終了でした」
今とは逆に、子供は多く、学校を増やしていた。教員の採用も多かった。
「面接会場も間違えたんやけどね」
それでも合格した。万事に余裕があった時代背景に小林は溶け込んだ。
摂津一中に社会科教員として赴任したのは1976年。3年目にラグビー同好会を作った。既存の部活は夏で終わり。体力をもてあましたやんちゃな中学生を卒業までの半年間、預かる意図もあった。
「その時は3年の担任だったので15人集まりました。でもその後が続かなかった」
子供たちが遊ぶ公園に偶然を装って現れる。「うどんを食べよう」と車に乗せる。行先は高校全国大会開催中の花園ラグビー場だった。
同好会なのでグラウンドがない。
「練習はそのへんの公園や淀川の堤防まで自転車で行ったり、朝早く学校でやってました」
ハンドボール部が休部になり、ようやく校内に地所を確保。1983年に部に昇格した。
一中には16年つとめた。部ができて9年間で府大会には4回優勝している。
教え子はその指導を振り返る。
「タッチフットが毎日ありました。タックルなしの試合形式の練習も多かったですね」
楽しいことを真ん中に据えた。
転勤した摂津五中には10年籍を置いた。後年、日本代表キャップ3を持つ選手を育てる。CTBの金澤良だった。
「ジャパンに入るなんて、全然おもてない。カラ(体)が小さかったからね」
当時を振り返り、小林は笑う。
金澤は174センチ。大阪工大高(現常翔学園)から法大、そしてリコーに進んだ。激しいタックルを中心に技術を磨き、2010年のアラビアンガルフ戦で初キャップを獲得。NTTドコモに移籍後、2013年度で現役を引退する。
同級生には俳優になる高橋光臣がいた。TBSドラマ『ノーサイド・ゲーム』で中心的役割を果たす。啓光学園(現常翔啓光)から東洋大に進んだFLだった。
「金澤はサッカーから、高橋はバスケットボールから引っ張ってきました」
それぞれ中2と中3に部活変更。小林がラグビーの魅力を伝えていた証しだ。
その後、一中に戻り、60歳定年を迎えた。さらに5年の再任用を受ける。
「最後が中2の担任でした。キリよく、もう一年やらせてもらいたいなあ、と思っていたら、残らせてもらえました」
66歳からは講師の肩書。中3生を送り出した後は、支援学級を受け持つ。
「できないことができるようになる。そこに成長がある。(隠居して)ふらふらしていたら、こんなに素晴らしいことには出会えません」
小林はラグビーのよさを「優しさ」と言う。
「自分ひとりでは点を取れない。仲間と一緒なら点を取れるんです。だから、まわりに優しくなれる。生きて行く上でも大事なことやと思います」
得たものは支援学級でも生きている。
昨年からテニス部の第3顧問にもなった。今でも生徒の中にいる。この春から教員生活45年目。ラグビーを軸に培った経験と人間性を周囲はまだまだ手放さない。