「コーチ」ではなく「先生」と呼ばれる。
普段は厳しい73歳の上野和雄先生が、選手の肩を抱いて優しく言った。
「一生懸命やった。全力を尽くしたぞ。それでいいんや」
負けて悔しがっていたみんなが顔を上げた。
12回目を迎えたヒーローズカップ決勝大会。神奈川・保土ヶ谷ラグビー場で2月22、23日に開催されたラグビースクール(RS)小学校高学年の全国大会に、大分RSは7年ぶりに出場した(2度目)。
初日リーグ戦は2敗1分けだったが、最終日2試合で初めて1勝を挙げた。前日とは見違えるタックルをして、伸び伸びと走った。最後の試合もトライ2本差の惜敗だった。
24年の指導歴がある上野先生にとっても初の全国大会。
「やっぱり全国に出るとなると目の色が違う。ここ最近ですごく伸びたんよ。大きな目標ができると子どもは変わると実感した」
6年生17人の成長が嬉しくて仕方なかった。
創立53年の大分RSはこれまで多くのトップ選手を輩出。その大半の小中学生時代に上野先生の指導があった。怒鳴り、手を出したことも。「今では考えられん。優しくナデナデよ」と笑う。
ただ、厳しくしても大人になってから「先生に会いたい」と訪ねてくれた。何年も前の教え子が試合の応援に来る。それが人柄を物語る。昔から強く叱るのは、選手がチームの輪を乱す行動をした時や、妥協して自分の全力を出さなかった時だ。
どんな子が大成するか。「才能だけじゃない。取り組む姿勢」と疑わない。
25年以上前。仕事帰りの車中から、坂道を黙々と駆ける小学生の後ろ姿が見えた。教え子の後藤翔太だった。のちに早大から神戸製鋼、日本代表にまでなった名SHだ。スクールでは「鈍足しょうた」と呼んでいたが、短所と向き合って努力していることを知った。
「負けん気が強かったな。抜かれたと思ったら、いつも翔太がバックアップしていた」
今も家族ぐるみの交流がある。今大会も宿舎に来て後輩たちを激励してくれた。
今年1月、早大のコーチとして日本一を経験した後藤氏は振り返る。
「先生は何度もあの坂道に来てくれて、いつも車の窓から『今日もやっとるなー』って。それだけで、見てくれていた、見てもらいたいって嬉しくて続けていた気がする」
練習は苦しかった。けれど先生の座右の銘でもある『昨日の我に今日は勝て』と、ずっと言い聞かせてくれた。
「その積み重ねをしてきた。上野先生がいなかったら間違いなく今の自分はない」
後藤コーチも、恩師のように惜しみなく気持ちを伝えて選手を育てようと、胸に刻んでいる。
大阪府貝塚市出身の上野先生は、今宮工業高(現・今宮工科高)でラグビーを始めた。工業からの進学が少なかった時代に、関東学院大へ。同大学が選手権初制覇を果たして黄金期を迎えるより30年以上も前だ。
建築を学び大阪でゼネコンに勤めたが、妻の故郷で仕事をしたのがきっかけで、33歳の時に大分に移り住んだ。会社を立ち上げ、今も現役の1級建築士としてマンションや官公庁などの設計を手掛ける。
大分RSとの縁は、現在コーチを務める長男の隆信さんが入校した35年以上前から。今や中学生と小学生の孫2人もスクール生だ。休日だけのボランティアでも、人生の一部として情熱を注いできた。
還暦を機に10年以上も離れたが、2年前に再び指導現場へ。御沓稔弘校長らが「伝統を知っていて、子ども達をやる気にさせ、若いコーチにもいろんなことを伝える人がいてくれたら」と復帰を打診した。
ワールドカップ招致と開催の熱気冷めやらぬ中で生徒も増えてきた。保護者との距離感の難しさ、OBとの交流の薄さが浮き彫りになっていた時だ。
上野先生は「厳しいのがダメのような時代だけど、こういうのが一人いてもいいかな。大分RSのためになるなら」と快諾した。
「教えるのはラグビーだけじゃない。してはいけないことやルールもある。そういうのは誰かがやかましく言わないと。集団生活から学んで子ども達が育つ。仲間のためにとか、くじけない気持ち。大分RSのスピリットを持っていて欲しい」
わざと大声で準備や片付けなどについて厳しく言い、親御さんにも気付かせるのもしばしば。「家でどんな生活をしているかはすぐに分かる」と、にやり。
「向いていないから辞めさせたい」と告げてきた保護者の相談に乗り、思い止まらせて感謝されたこともある。
「親が子どもを見切ってはいけない」
若い親にもそう諭して、たくさんの子どもと接してきた実体験を伝える。
これからも「体が動かなくなるまでは」グラウンドに立つつもりだ。もうじき60年になるラグビー人生で自身初めての全国大会を終えて、上野先生はどう感じたのか。
「届く範囲だと思うよ。全国のチームが相手でもやれる。狭い大分だけでは分からなかった。これからみんなが全国を経験できたらいいなあ」
自分の感慨より、やっぱり子ども達や後進のことを思っている。