牟田至は社業に還った。
籍はサントリー酒類。肩書はグルメ開発部の営業担当部長だ。
「お酒のご提案や提供などを含め、新規開店のサポートが主な仕事ですね」
日焼けした顔は指導者の名残りだ。
この3年間、母校の関西学院を率いた。監督とビジネスマンを兼ねた。
最後の2019年度はチームを5年ぶりの大学選手権出場に導く。
56回大会の8強戦では準優勝する明治に14−22。東京・秩父宮での8点差敗退は、関西の名門復活を印象づけた。
「よくやってくれました。100点ゲームになるかと思ったけど、これまでと違う力を見せてくれた。学生はすごいと思います」
先発15人を比べると、明治は高校やU20など世代の日本代表経験者が10人。関西学院は3人。肩書通りの結果にさせないため、伝統である「学生主体」、言い換えれば自主性が発揮された。負けたくない思いで結束する。
「正直に言えば、逃げの論法という部分はあります。ウチは経済的にフルタイムのコーチを置けません。それがやれない以上、学生主体でいくしかありません」
牟田は与えられた環境で戦った。
関西学院の創部は1928年(昭和3)。90年超の歴史を誇る。戦後の昭和20年代は関西大学対抗戦(関西リーグの前身)で6回の優勝。しかし、スポーツ推薦入試の廃止や入学難が重なり、1957年の頂点を最後に低迷する。
再び覇権を奪回するのは2008年。実に51年ぶりだった。監督は同じ牟田。第1期の2年目。1年目は5位だった。
沈んでいた半世紀はOBの結束も弱くなる。予算獲得や環境改善のため、大学側に部の声を届けるOB職員の数は今でも2人。看板クラブのアメリカンフットボールは10人以上。この差は戦績に現れている。
牟田が2期目の監督に就任したのは2017年度。1期目から10年近くが経過していた。どの学校も宣伝・広告の意図もあり、資本などを投下。簡単には勝てなくなっていた。
再登板の理由は立て直しだった。前年度、監督と学生がもめる。同率3校間の得失点差で6位。さらにその前は8位で入替戦。2年連続して最下位に等しかった。
「カオスのようの状況でOB会から突然、行ってくれないかと言われました」
牟田はOBの切り札だった。軸に据えたのは対話。「学生主体」のスタイルは変えない。できるだけ声をかけ、一方的に意見を押し付けるのではなく、学生の思いを聞いた。
「学生主体は絶対に大事。それがウチのアイデンティティーということもありますが、こちらが手取り足取りやっても身につかない。自分たちで何が足りないかを考え、取り組む。それは社会に出てからも生きるはずです」
土日は自宅から車で15分ほどの上ヶ原のグラウンドに通った。12時間の滞在は当たり前だった。有給休暇は合宿などに充てる。
初年度は4位。最終戦で立命館にサヨナラPGを決められ、選手権出場を逃す。
「あと1年早く、牟田さんに会いたかった。厳しさも、優しさもある牟田さんがいれば、チームはもっと強くなっていたはずです」
試合後、CTB金淳英(きむ・すにょん=現東京ガス)は涙声で語っている。
次年度も4位。2年の成績からセットプレーの安定が不可欠と学生が実感する。そのため、春はスクラムを4000本組んだ。春季トーナメントは7位も、秋のリーグ戦は3位に食い込んだ。明治の善戦の源でもある。
学生主体の尊重と同時に「チーム方針」を明確に打ち出す。
「タックルしないやつは使わない」
3年目にそれを具現化したのがSH橋詰学やCTB福本泰平だった。2年生の橋詰は天理高時代、控え選手。4年生の福本は御影高出身。公式戦出場は0だった。有名校2軍でも無名校から来ても、努力すればレギュラーになれる。チームには公平感が漂った。
牟田は48。練れる年齢になる。
全国舞台を最初に知ったのは大阪・北野高。チームは1年時、42年ぶりに全国大会(67回=1987年度)に出場した。
「すごく人が入ったのを覚えています」
3回戦で12−16と伏見工(現京都工学院)に敗れるが、観衆は2万超。2代前の花園ラグビー場はタッチライン際まで人であふれた。
一浪後、関西学院に入学する。高校を同じくする双子の兄・誠は同志社を選び、同じFBとして活躍。卒業後は広告業界で生き、現在は台湾博報堂の社長をつとめる。
当時の関西学院はBリーグ。強豪ではなかったため、サントリーへは一般試験で入った。その後、ラグビー部から召集がかかる。
サンゴリアスと呼ばれるチームでは速さを武器に2年目から公式戦出場。日本代表キャップ8の今泉清を押しのけた。コーチ時代のエディー・ジョーンズからも指導を受ける。イングランド代表監督は今でも「ムタ」と気軽に声をかける。
全国社会人大会(トップリーグの前身)では1回(48回=1995年度)、日本選手権では2回(33、38回=1995、2000年度)の優勝を経験する。ケガもあったため、2001年3月に現役引退。在籍は6年だった。その6年後、関西学院の監督になる。
「牟田さんはすごいですね」
定期戦を行う立命館の監督・中林正一は言った。牟田の2期5年の成績は5、1、4、4、3位。5位以下のBクラスは1度のみ。元日本代表HOは6学年上の牟田に尊敬がある。
「いやー、しんどかった。大変でした」
牟田は総括の言葉を吐き出した。
家庭に帰れば、中1と小2の2児の父である。ようやく男親としての務めが果たせる。
チームの後事は小樋山樹に託した。
当初、2年で退任する予定だった。しかし、学生側から懇願され、1年延長をした。5年に及んだ監督生活は社業に影響を与えた可能性もある。ただ、強豪チームで若い人や組織を動かした日々はこれからに生きる。
牟田は得難い経験をしたことになる。