ラグビーリパブリック

【ラグリパWest】福本家の春。

2020.02.13

常翔学園に通う次男・航平さんの応援のために花園ラグビー場を訪れた福本家。左から長男・泰平さん、父・正幸さん、航平さん、祖母・洋子さん、母・千智さん、長女・真由さん。2020年1月3日、99回全国大会準々決勝で京都成章を27−24と破った直後



 福本家にとって最良の春がやって来る。
 家族の結びつきは楕円球によって強さが増した。

 父の正幸は神戸製鋼のチームディレクター。仲間からは「ゴリさん」と呼ばれる。
「子供たちは自分たちで努力して未来を切り開いて進んでくれています。これもラグビーのお蔭です」
 52歳の父は現場の責任者として、前回のトップリーグで深紅のジャージーを15季ぶり2回目の優勝に導いた。連覇を狙う今季のリーグ戦でも開幕から4連勝中だ。

 福本の家を次代につなぐ子供たちは3人。長男の泰平、長女の真由、次男の航平である。それぞれ2学年ずつ空いている。

 泰平は関西学院大を卒業し、この4月、関西電力に就職する。
「ラグビーが好きないい家に生まれてよかったです」
 4年生でCTBのレギュラーを確保。56回目の大学選手権では8強入りに貢献した。準優勝する明治大に14−22と善戦する。

 真由は同じ大学で新3年生になる。トレーナーとして主に選手たちの体重を管理する。12月には兄と一緒に秩父宮に行けた。朱紺と紫紺の戦いを当事者として見る。
「おにいちゃんがAチームにいてくれてうれしかったです。すごいなあと思います」
 尊敬のまなざしを向ける。

 2人は他界した祖父・幸弘の後輩になった。昭和30年代にCTBとして活躍した祖父と泰平は同じ背番号13を背負う。

 末っ子の航平は慶應大に入学する。こちらは父の後輩になる。AO入試で環境情報学部に合格した。
「受かった時は実感がわきませんでした」
 文武両道。常翔学園ではFLとしてレギュラー。99回全国大会では御所実に7−26と破れるが、4強進出の力になった。元々はBK。SOやCTBもこなし技は多彩だ。

 福本の親族にもラグビーは近い。
 伯母の美由紀は日本代表の元フランス語通訳。前回のW杯でスクラムコーチのマルク・ダルマゾにつき、3勝をサポートした。
 祖母の洋子の実家は天理だ。孫たちの好物、泰平と真由はハンバーグ、航平はひじきの煮ものを作って食べさせる。

 母・千智(ちさと)はラグビーを介して父と知り合い、1997年に結婚した。
「いつの間にか子供たちの『おっかけ』をするのが生きがいになりました。楽しませてもらって、ありがとうと言いたいですね」

 愛称は「アグネス」。OL時代に長い髪がアグネス・チャンに似ていることからついた。
「でもケガが心配です。スマホが鳴るたびに次は誰かなとどきっとしてしまいます」
 3人は順風満帆だったわけではない。

 泰平は大学の3年間、公式戦出場は0。小2から兵庫県ラグビースクールで幼稚園児だった航平と競技を始めるも、中学ではバスケットボールを選ぶ。170センチほどの身長のため、高校ではラグビーを再開。御影(みかげ)は中央では無名の県立校だった。

「大学ではみんな全国レベル。練習もしんどかったです」
 救いは2年から監督になった牟田至。「タックルしないやつは使わない」という方針を打ち出してくれた。毎日の自主練習では肩当てを繰り返し、タックルで必要な背中の筋肉も漕艇の練習マシンなどで鍛え続けた。




 真由は追手門学院で本格的にラグビーを始めた。中学時代は100メートルハードルで近畿4位。14秒52の記録を持っていた。
 高3の秋、すい臓破裂の大けがを負う。静岡での試合でタックルに入った時、相手のかかとがお腹に当たった。

 父が新大阪まで迎えに行き、緊急手術をする。生死の境をさまよった。目覚めた時、枕元には父がいた。
「おとうさん、ありがとう」
 最初に出た言葉は謝意だった。
「ありがとうも何も、こっちが生きてくれてありがとうですよ」
 父は今でもその時のことを忘れない。

 航平の慶應進学は常翔学園のラグビー部からは3人目。ラグビースクールの先輩でもある南翔大と松本拓弥に続いた。
「おとうさんの影響もあったし、ジャージーも格好よかったです。中2の時に翔大さんが慶應に行ったのを聞いて、常翔を選びました」

 ラグビーを極めながら、父と同じ大学に進むのは大変だった。
 神戸の自宅から大阪の学校に朝練習に通うためには4時起き。5時過ぎの電車に乗る。校内での評定を下げず、受験対策もとらないといけない。父は振り返る。
「毎晩12時ごろまで勉強していました」
 寝込んでしまい、明石の手前の須磨で車掌に揺り起こされたこともあった。

「航平がうかってくれたのはうれしいけど、やっていけんのかなあ、と不安になります」
 父は天王寺高から入学。30年前の夏合宿は「地獄の山中湖」と呼ばれ、PRだった父は1日400本のスクラムを組んだ。
「数は覚えていません。しんどくて。ラスト10本、の声がかかっても、そこから100本くらい組んでいました」
 今、そんな練習はないが、父にはその時代が強烈な思い出として残っている。

 猛練習をくぐり抜けた父はU23日本代表に選ばれる。平尾誠二に誘われて、神戸製鋼へ。入社年次は1990年。その2年前から始まった全国社会人大会(トップリーグの前身)と日本選手権の7連覇を支えた。

 その父の子として生まれた3人はそれぞれの経験を重ね、次のステージに進んでいく。
 唯一所属が変わらない真由は目標がある。
「明治に勝てるところまで来ました。今年は日本一を目指してやっていきたいです」
 監督は牟田からNTTドコモで現役を引退したOBの小樋??山樹に代わる。

「泰平と真由がおじいちゃんと同じ関学に、航平が僕と同じ慶應に行ってくれて幸せです」
 父は感慨深い。
「みんながラグビーをやってくれてよかった。今でも会話がありますから。泰平がバスケをやっている時には会話がありませんでした。バスケはよくわからへんもんね」

 父と同じラグビーを選んだ子供たち。そしてそれを支えた母。これからもその精神をよりどころにして人生を歩んで行く。